十二代 高見祖厚 (2)
尓任古来之名称ハ小侍従といつるよし有故て十六年
辞し天熊本ニ帰る山岡鐵太郎と一同辞職熊本ニ
帰里上益城郡東禅寺内に無何有庵を築て
隠栖須 明治十八年有故而熊本神宮教會長尓
任須三年之後退職直ニ無何有庵ニ入旧知事君
護久公急症御病死東京尓行御葬式翌日ニ
剃髪染衣と奈り東京小石川白山龍雲院ニ閑居セる
南隠老之弟子と奈留法名祖厚と改む東京滞在
中脚気大患危篤ニ至留為熊本より浅山知定安
次を同道箱根二来留佐々等春々め尓より東京より
此地ニ転養春偶再生し天帰東京佐々等兼而
此東京空気あし計れハ向方へ御転居可然と春ゝ無
より天京都高桐院裏二自在庵を建築し天
閑を養己二十年此高桐院ハ三齊公叔父君の
(雑掌)に任じられた。これまでこの名称は小侍従と呼ばれていたとのこと。
事情があって16年(1883)辞職して熊本に帰り、山岡鉄太郎(鉄舟)らと揃って辞職した。熊本に帰ると、上益城郡の東禅寺内に無何有(むかう:自然のままで、なんらの作為もないこと)庵を築て世俗をのがれ閑居する。
明治18年(1885)事情があって熊本神宮教会長に任命され、3年後にここを退職、直ちに無何有庵に入る。
明治26年(1893)9月1日旧知事君の(細川)護久公が急に病に倒れ御病死された。東京に行きお葬式に参加、翌日には剃髪法衣となり東京小石川にある白山龍雲院に閑居することになった。 南隠老(南隠全寓老師)の弟子となり、名前を祖厚と改める。
東京滞在中脚気を大患いし危篤になったため、熊本より浅山知定(十一代嶋之助娘千代の嫁ぎ先)、安次(息子)をつれて箱根に来る。佐々(友房)等のすすめにより、東京からこの地に転養すると、偶然にも元気を取り戻して東京に帰ることができた。
佐々(友房)らは、かねてよりこの東京の空気が悪いので、どこかしかるべきところに転居した方が良いとの強い勧めもあって、京都高桐院裏に自在庵を建築してしずかに己を養うこと20年、ここに過ごした。
高桐院は三斎公叔父君が(創立した寺であり、)
くずし字解読
左の画像は上記終わりから5行目だが、分解すると「箱根二来留」(はこねにくる)
「佐々等春々め尓より」(さっさとう、すすめにより)
「東京より」(とうきょうより)
「此地ニ転養春」(このちにてんようす)
「偶再生し天帰東京」(たまたま、さいせいして、とうきょうへかえり)
「佐々等兼而」(さっさとう、かねて)
「此東京空気あし計れハ」(このとうきょう、くうき、あしければ)
向方へ御転居可然と春ゝ無(むこうへ、おんてんきょ、しかるべしと、すすむ)