豊後街道を辿る その33
今市宿の石畳道
左画面は、県道412号です。ここを左に進むといよいよ今市宿の石畳道に入ります。中画面は道標で「肥後街道」と書かれていますが、これは、大分側からは「豊後街道」のことをこのように呼ばれています。右画面は、石畳道から県道412号の熊本方面を望んでいます。
石畳入り口から、180m程進むと左側に丸山八幡神社への階段がありました。この神社についての説明書です。
大分市指定文化財 丸山神社楼門
丸山神社の楼門は江戸時代の享保5年(1720)に創建されたものである。今市在住の豪商であった松田庄右衛門尉長次が父母の長命、子孫繁栄を祈願して、神社に楼門の寄進を思いたったという。 最棟高は8m余り、入母屋造の銅板葺唐破風付である。この近郷にまれな立派なもので豊後における数少ない楼門の一つである。 記録によればその後、文化10年(1813)、天保2年(1831)、安政2年(1855)に屋根葺替修理をし、平成3年(1991)に全面修築を行った。 この楼門には創建当初の彫刻とみられる、数々の彫刻が施されている。内側面に透彫りで酒造りの過程、二十四孝(中国で古今の孝子24人を選定したもの)の人物や十二支の動物などが巧みに彫られている。
注) 「楼門(ろうもん)」とは、2階建の門で、1階には屋根が付いていない門を指し、屋根が付いている門のことを「二重門(にじゅうもん)」と呼ばれ、区別されています。
右画面のように、石畳は端正に維持管理されています。
上画面には、街道沿いにあった代官屋敷や商店名などが書かれています。注目すべき点は、石畳道の中央付近に「信玄曲がり」と呼ばれる鈎の手が構築されたり、「火防薮床」という竹藪が設けられたり、この場所が極めて重要な場所であったことが読み取れます。
今市についての説明書きです。
今市は七瀬川と芹川との間の台地(標高450m)にできた集落で、古くからの物資の集散地でした。文禄3年(1594)中川英成が岡藩7万石の領主として入部。今市も岡藩の領地になりました。中川氏はやがて野津原村以西の肥後街道を参勤交代道路の一部として利用するようになったのです。今市が宿場として整備されたのは慶長年間(1596~1615)のことで、庄屋伝兵衛の祖先が藩命により開発したと伝えられています。岡藩のお茶屋は元禄8年(1695)、上町に移されて西の御茶屋と呼ばれるようになり、延享元年(1744)に廃止されました。肥後藩の御茶屋は、寛永10年(1633)下町に移りました。宿場の東西には上溝、下溝と呼ぶ門があり、警護に当たっていました。
石畳を曲がる手前の中程に、「今市 地蔵菩薩 弘法大師堂」という御堂があり、左右に地蔵菩薩と弘法大師の石像が鎮座していました。中画面は「信玄曲がり」の曲がる直前の角で、右画面はその曲がった後の道です。
街道沿いには建物や空き地が見られ、それぞれ旧屋号の案内板があります。「豊前屋跡」(左画面)、「岡屋跡」(中画面)、「福丈字屋跡」(右画面)。
左画面は、「信玄曲がり」を曲がりきった先の石畳で、直線が続きます。中画面は、出口近くの屋号「木戸屋跡」で、現在も住宅として使われているようです。右画面は、今市宿場跡から県道412号に出た所にある大きな道標で、府内(熊本市内)まで六里、鶴崎まで八里と書いてあり、豊後街道の中間点から、やや鶴崎寄りの地点と言えます。