豊後街道を辿る その29

岡城西の丸から東へ進むと大きく開けた三の丸跡に至ります(左画面)。ここには、三代藩主の中川久清公に藩政に関する指南を行った熊沢蕃山に対する表彰碑(中画面)や、幕末の勤王の志士である小河一敏を讃えた碑があります。

右画面は、三の丸北側から二の丸に続く絶壁上に築かれた見事な高石垣です。中画面は、三の丸隅から望む清水谷です。三の丸跡についての説明板(右画面)の内容は、次の通りです。

三の丸跡

三の丸は西側に「太鼓櫓門」、東側に「御門櫓」(埋御門)の2ヶ所に入り口がありました。「太鼓櫓門」を入ると石垣に囲まれた桝形の虎口が形成され、三の丸への通用口(幅5m)と藩主専用の「御成門」(幅2m)の石段が位置していました。殿舎は、四十畳「寄附」や三十畳の「御広間」があり、御広間には床、棚、書院等の座敷飾りがみられ、上ノ間として使用されていました。  三の丸は他藩の使者や家臣が藩主と対面する場として使われていたと考えられます。殿舎のあった位置には、以後土蔵が建てられ土壁の跡が今でも残っています。

右画面は「太鼓櫓門」。中画面は三の丸への通用口で、左石段が御成門への石段、右石段が通用口の石段です。右画面は鐘櫓跡です。

上記画面は、貫木門跡(西中仕切跡)の遠景(左画面)と、その階段(中画面)、と標柱(右画面)です。ここは、三の丸、二の丸、本丸へと続く重要な門で、この奥は、典型的な虎口(こぐち)を形成する石垣があります。虎口は城郭の正面開口に当たり、城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となるため厳重に防御される重要な拠点です。

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