豊後街道を辿る その30

中画面は、「二の丸阯」の標柱、右画面は、「月見櫓跡」の標柱です。左画面の説明板の内容は、次の通りです。

二の丸跡
二の丸は、北の方角に張り出したL字状の地形をなしています。中央に御殿を配し、御玄関を入ると台所まで大広間が続き、地形に沿うように松ノ間から山吹ノ間まで書院が形成されていました。また、北端の突出したところには数寄屋風の月見櫓、東端に風呂屋が造られていました。  月見櫓は、外側に縁が巡らされた望楼が設けられていました。防御を目的としたものではなく、詩歌や茶の湯、酒、書画、音楽などが楽しまれていました。政務の場と遊興の場を併せ持つ月見櫓は各部に意匠が凝らされていたことが絵図などから窺えます。  風呂屋は、石垣から張り出した足場を組んだ二階建ての建物で、一階に風呂、ニ階に畳の座敷や涼をとるための簀子縁が設けられていました。また、ニ階からは箱階段で本丸へ通じていました。  二の丸は、軍事的要素の強い各郭とは対照的に和やかで優雅な趣のある建物を有するという岡城の中で特徴的な施設で、遊興の場として使用されていたと考えられます。

二の丸跡には、このほか「空井戸」(左画面)や、瀧廉太郎の銅象(中画面)、荒城の月の歌碑(右画面)がありました。瀧廉太郎は幼少のころ、この岡城によく遊びに来たようで、この雰囲気に感化され「荒城の月」が作曲されたようです。右画面の歌碑は、よく知られた土井晩翠の詩が書かれています。この歌碑に書かれた文字は、変体仮名交じりの詩ですが、翻字を試みてみました。

荒城の月
春髙楼乃花能宴 秋陣営の夜半能霜 廻る盃影さし天 鳴き行く雁の数見せ天 千代の松可枝わけ出し 植うる剱尓照そへし 昔の光今いづこ 武かしの光今いづ古  晩翠

本丸跡の中央に岡城跡の説明文が収められた屋根付きの看板がありました(左画面)。以下説明文を転記します。

国指定史跡 岡城跡

岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大物浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。  建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で、その城はきむれ(騎牟礼)の城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。  天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大群が岡城をおそい、わずか十八歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。  文禄3年(1594)二月、播磨の国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった。  明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、十四代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げですべてが取りこわされた。  瀧廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。

平成十年三月  竹田市教育委員会

本丸跡には金倉跡、岡城天満神社がありました。説明板は次の様な解説がありました。

岡城天満神社

この神社は1593年(文禄2年)中川秀成が岡城に入城した時に、城内東側にあった天神祠を移転建立したもので、中川歴代藩主が守り神として崇拝してきた神社で、祭神は学問、農業、財産を守る菅原道真公です。1871年(明治4年)廃藩に伴い村社となり、大字竹田の人々が氏神を祀る氏子となり、本丸・二の丸・三の丸は神社の境内となりました。 最後の城主中川久成が上京後の城址は荒れ果て、樹木雑草が生い茂り石垣は壊れ、つたかずらが繁茂し、狐、狸、猪などが出没する、まさに荒城となり、この神社も荒れ果てたので、1910年(明治43年)竹田の城下町に遷座されました。 その間、岡城を訪れる人は狩人か学生位で、「荒城の月」作曲者、瀧廉太郎もその散策を試みた一人と思います。「荒城の月」の名曲が世間に知られるようになると、町民は荒廃を歎き1932年(明治7年)公園として桜や紅葉を植栽し美化保存に努めました。1936(昭和11年)岡城が国指定史跡となった事等で登城者も増加してきたので1955年(昭和30年)神社は元の本丸跡に遷座されました。 以来修復を繰り返してきましたが老朽化が進み、もはや現状維持が不可能となったので平成の大改修を行いました。拝殿、申殿の解体修理、神殿回廊の改修、天井絵馬の新規制作、屋根瓦の葺き替えに六ヶ月の歳月を要し2016年(平成28年)3月13日竣工致しました。ご覧いただきたいのは、拝殿の五十四枚の天井絵馬です。中央に中川の家紋、東西南北に神社を守る寅、龍の二神、午、子の干支を、そしてっこの地方の花卉を配置しています。大分県内の日本画家女性三名が丹精込めて一年がかりで制作した貴重な文化財です。氏子や市民が奉納いたしました。  岡城は1586年(天正14年)島津三万の大軍の攻撃を退けた事から、難攻不落の天下の三堅城として栄えた事で、この神社は受験に失敗しない事(落ちない)の験(げん)を担いで多くの人々が参詣しています。  祭は春秋二回行われています。秋の大祭では、近隣の神楽座のうち一座を招き神楽を奉納しています。この時季本丸からの全山紅葉の景観をめでる絶好の機会に出会う事が出来ます。

平成二十八年三月  文責「岡城天満神社総代会」

また、三重櫓跡(左画面)の上から眺める景色は、まさに絶景で、国道502号(中画面)や、祖母山(右画面)が望めます。

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