豊後街道を辿る その31

岡城の西1.6km先に竹田町がありますが、ここは正に岡城下町です。入り口には殿町の武家屋敷跡が続きます。左画面は、キリシタン洞窟礼拝堂の標識がありますが、詳しくはこちらを参考にして下さい。中画面は、道路と土塀が端正に修復された武家屋敷通りです。右画面の通りには、古い土壁がそのまま残されていました。

こちらは、古田家の仲間(ちゅうげん)長屋門です。仲間とは、武士に仕えて雑務に従った者で、侍と小者の間に位します。右画面には次の様な説明がありました。

江戸時代の面影を残す武家屋敷 古田家仲間長屋門

この殿町は城下町東南の一画に位置し、往時には両側に重臣をはじめ多くの武家屋敷が軒を連ねていました。1787年の古絵図には武家屋敷数は十三軒あって禄高は約100石~200石の武士が住んでいた地域です。  この殿町通りは、両側に重々しい土塀と門が往時をしのばせ、その長さは120m程ですが、特に土塀は長い風雪に耐えしのび、歴史の重厚さを感じさせます。この風情にとけこむように古田家の仲間長屋門は存在します。  この長屋門の半分は、弘化4年(1847)に建てられた仲間長屋が基をなしており、江戸時代の間は仲間長屋として利用されていました。 明治初期には、養蚕のため従来の仲間長屋と棟続きとした長屋門に改築されています。その後、長屋門は昭和63年度に解体修理され、武家屋敷郡の風情を損なわせる事なく建築当時のまま保存されています。  この先に「切腹の間」のあった北條家があります。北條家は岡藩第八代藩主久貞侯の側室北條織江の生家で、孫の久持は十五歳で第九代藩主となりました。織江の墓は竹田市十川の龍上寺にあります。北條家の前には奉行職を務めた長尾家があります。当時は見事な庭園がありました。

 平成九年四月   歴史と文化を考える会

左画面は、武家屋敷通り入口に位置した「竹田創生館」門前で、建物は本館(中画面)と蔵があります。本館では、各種講座・研修会・展示場として利用されいるようです。訪問当時は、昔の農機具、工具、生活雑貨などが展示されていました(右画面)。

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