豊後街道を辿る その35

鶴崎小学校の一筋南の広い道路には、「毛利空桑先生像」と「空桑・思索の道」という記念碑がありました。この像の奥には、「大御代は ゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴さき」という歌と共に勝海舟と坂本龍馬の実物大の石像がありました。(左画面奥)。

中画面は、毛利空桑遺品館です。以下は右画面の説明板の内容です。

毛利空桑記念館 旧宅および塾跡

毛利空桑記念館 郷土の偉人・毛利空桑の業績を記念して設立した施設です。記念館は、遺品館・天勝堂(旧宅)・知来館(塾跡)の3つから成っています。昭和48(1973)年、毛利弘氏(空桑のひ孫)から大分市へ、建物・敷地・遺品が寄贈されました。

毛利空桑遺品館 空桑の著述、詩作、生活用品など遺品を展示・収蔵しています。昭和60(1985)年に庭園と併せて整備されました。

天勝堂(旧宅・県指定遺跡) 昭和45年3月31日指定  空桑の私宅。郷里の常行村に建てられ、知来館とともに現在地に移転・改築されました。1階は5室、2階は3室からなり、2階の梯子は防戦のため取り外しができる構造となっています。江戸時代の民家の造りを伝える貴重な建物です。

知来館(塾跡・県指定史跡) 昭和45年3月31日指定  空桑の開いた私塾。現在地には、安政4(1857)年に熊本藩の援助で建てられ、1階は生徒の日常生活の場、2階が講義室となっています。教育の目標は文武両道とし、禁酒・男女交際・娯楽の禁止など25ヵ条にのぼる厳格な熟則の下に、遠くは山城(京都)、和泉(大阪)、美濃(岐阜)などから生徒が集まり勉学に励みました。門下生は鶴崎出身・・・

毛利空桑(1797~1884) 「文ありて武なきは真の文人にあらず。武ありて文なきは真の武人にあらず」の文武両道を信念とした剛毅端正な人物で、幕末から明治初めに活躍した儒学者・尊皇論者・教育者で、名は倹、通称は到(いたる)といい、空桑と号した。

<略歴> 1797年(寛政9)1月15日に、熊本藩領の常行村(現大字常行)で熊本藩医であった父太玄と母阿秀の第2子として生まれ、14才で鶴崎の脇蘭室に漢学を、26才のとき福岡の亀井昭陽に古文辞額の教えを受けています。 1824年(文政7)28歳の時、郷里の常行村に私塾・知来館を開き、後には鶴崎詰めの熊本藩士子弟の指導方にも任じられ、勤倹を実践して指導にあたります。空桑が説いた尊皇思想は、明治維新にも影響を与え、長州藩の吉田松陰・水戸藩の斉藤監物や岡藩の小河一敏らも塾を訪れています。 1871年(明治4)74歳のとき長州の脱藩者・大楽源太郎ら数十名をかくまい逃したとして投獄の刑を受けるなど、老いてもなお気骨あふれる人であり、1884年(明治17)生涯をとおして青少年の教育に携わったことに対し、また、勤王の功により従六位に叙せられています。  大分市教育委員会

「毛利空桑記念館」の西隣には、日蓮宗の「法心寺」があります。左画面は、雲鶴山法心寺の山門です。中画面は、清正公の胸象です。下記は、右画面の説明板の一部です。

加藤清正公と鶴崎の由来

加藤清正公は慶長6年(1601)に徳川家康公により、関が原合戦の手柄による褒美として、天草の領地を加増してもらったが、鶴崎が瀬戸内海に面した海上交通の要所になるであろうと考え、天草を辞退し、その代替地として鶴崎・高田地区他、豊後国内の領地を領有するようになりました。 清正公は大野川や乙津川の治水工事を行い、堀川(港)を造って船着場としました。そのおかげで瀬戸内海を往来する船の発着でにぎわい、鶴崎の町は海陸交通の重要な所となり、軍事上からも大事な拠点となりました。 又、政治の中心として熊本藩鶴崎御茶屋(鶴崎小・鶴崎高校一帯)を建て、町割りを行い、法心寺を建立するなど鶴崎発展の為に大きな業績をあげました。

鶴崎御茶屋跡(鶴崎小学校)の東隣には、「本陣 和泉屋八右衛門」がありました。ここは、坂本龍馬や、伊能忠敬が宿泊した本陣(公的な旅宿)です。左画面の看板の内容。

龍馬。鶴崎宿泊の地(本陣・和泉屋)

坂本龍馬が豊後街道を訪れたのは1864年四国連合艦隊と長州藩による下関戦争の調停を命ぜられた勝海舟に同行し、長崎へと向かう道中であった。

『海舟日記』から抜粋
文久4年(1864)2月15日 豊後佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止泊。 16日 豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀関より5里。此地、街市、可なり。市は白滝川に沿う。山川水清し、河口浅し。 『大御代は ゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴さき』 17日~ 野津原に宿し、肥後街道を通って長崎へと向かった。 後に海外雄飛を夢見た龍馬が商社、亀山社中の拠点を長崎に置いたのは、この旅がはじまりであった。

中画面は、伊能忠敬が全国を測量し「大日本沿海興地全図」を完成させるために、ここ鶴崎を立ち寄りました。その案内板です。内容は次の通りです。

伊能忠敬宿泊の地 和泉屋八右衛門 宅 跡

伊能忠敬一行は文化7年(1810)2月13日に府内より入り、ここに泊り14日は周囲の村々を測量、翌15日は雨天の為足止めとなり、16日の朝、臼杵領里村(大分市坂ノ市里)へ出発しました。 このとき伊能忠敬は66才でした。

右画面は、細川家肥後入国以後の鶴崎三間町にあった本陣「和泉屋八右衛門宅」の配置と間取り図です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です