豊後街道を辿る その28

「TAOの丘」から国道442号に戻り、25kmほど大きく南下すると、大分県竹田市に至ります。その一角に岡城公園がありますが、そこの駐車場にあったGUIDEMAP(左画面)には次の様な説明がありました。

国指定史跡  岡城跡
岡城は、稲葉川と白滝川に挟まれた断崖絶壁の地に築かれた山城です。曽能歴史は古く、緒方三郎惟栄が源義経をかくまうために築城したという伝説にはじまります。その後、時は流れ、岡城は志賀氏の居城となりました。天正14年(1586)の豊薩戦争では、周辺の城が次々と島津軍の攻撃で落城していく中、志賀親次が守る岡城だけは攻め落とされることはありませんでした。以降、「難攻不落の城」として、その堅固さが世に広く知れ渡るようになりました。  戦国時代末期の文禄3年(1594)、播磨国(兵庫県)三木より、入部してきた中川秀成により、岡城は、それまでの山城から総石垣の広大な近世城郭へと変貌を遂げました。大手門・近戸門・下原門が設けられ、御殿など多くの建物が建ち並びました。また、度重なる災害による建替えや破損の修繕が繰り返されてきました。  明治時代になり、役目を終えた岡城の建物は競売にかけられ、石垣のみが残る城跡になりました。滝廉太郎の名曲「荒城の月」は、少年時代を竹田で過ごした彼が、よく遊んだ岡城跡を思って作曲したといわれています。昭和11年(1936)、岡城は国の史跡に指定され、現在に至るまで保存整備が行われてきました。 遠方に阿蘇くじゅうの山々や祖母山を望む岡城跡では、雄大なスケールの石垣と四季折々の自然が織りなす唯一無二の景色を楽しむことができます。岡城の悠久の歴史に思いを馳せながら、岡城散策をお楽しみください。

中画面は、城入り口にある「史跡岡城阯」の石碑です。右画面は、城郭へのアプローチですが、左は徒歩で、右は車で行くことができます。

左の道を徒歩で歩いて行くと、急階段があり(左画面)、ここを上ると、大手門(中画面)に辿ります。案内板には次のような説明がありました。

大手門跡
大手門は、城の正面に位置する門で、本来は追手門といいます。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を集中させる目的があります。大手門には侍番が置かれ、城中への出入りにはかなりの注意が払われていました。現在、櫓台である石垣と礎石・車敷が残っています。  岡城では、文禄3年(1594)中川氏入部後、大手・近戸・下原の三口が切り開かれ、かつでの大手門はここよりも東側に設けられていましたが、慶長17年(1612)に岡城へ立ち寄った築城の名人である伊勢津藩主藤堂高虎の意見によって、今のように西向きに替えたと伝えられています。
国指定史跡岡城跡 昭和11年12月16日指定

右画面は、移転前の大手門で、「下原御門」と呼ばれています。

大手門跡から左(西)に進むと、西の丸跡に至ります(左画面・中画面)。右画面の説明文は次の通りです。

西の丸跡
西の丸御殿は寛文4年(1664)に三代藩主久清により普請されました。久清は、この御殿を家督相続による隠居後の住いとして造った様です。  しかし、元禄2年(1689)の正月元旦には、「当年始より御家中御礼、西御丸にて受けさせらる」といった具合に城の公式行事の一つに用いられています。さらに、西の丸御殿は、明和8年(1771)の大火災により焼失し、安永8年(1779)に再建されて以後、政務の中心的役割を果たすようになりました。文政13年(1830)には宝厳院(三代藩主久清)の150回忌法事の祝儀能、天保3年(1832)の浄光院(太祖清秀)の250回忌の祝儀能が行われていることから、西の丸は本丸部分にはない儀礼性や居住性を取り入れた政治の中心的な曲輪です。

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