豊後街道を辿る その27
久住御茶屋跡
「一里山石灯籠」から、豊後街道(旧道)を北へ進み、1.7km進むと、竹田市久住支所(左画面)と、久住町中央公民館が建っている広場に至ります。ここは、交通の要衝で、肥後熊本藩領の飛び地で、加藤清正公の次代から統治されていました。ここに、御茶屋(お殿様の宿泊施設)がありました。右画面は、その御茶屋跡の記念碑です。この場所に到着する手前には、「久住会所跡」がありますが、この会所とは、熊本藩の役人が常駐し、この久住の地を管理する場所で、久住手永も併設されていたようです。
この地以降の豊後街道は、事前調査の不備や車でのアクセスが難しかったため、「今市の石畳」と「鶴崎の歴史の道」を除いては、豊後街道にこだわらず、単純な旅行記に切り替えますので、ご承知おき下さい。参考までに、この区間の遺構には次の様なものがあるようです。
今市の石畳まで:久住の石橋、境川眼鏡橋、納池神社、老野神社、四つ口、常証寺、豊後のキリシタン墓碑、神堤宿、小無田宿跡、一本櫟など。
今市の石畳から鶴崎迄については、野津原町商工会のホームページに詳しく掲載されていますので、そちらを参考にして下さい。
猪鹿狼寺跡
久住交差点から豊後街道を離れ、北西へ750mほど進むと、猪鹿狼寺(いからじ)があります。ここは、延歴年間(782~806)に最澄が唐から帰国した際、久住山南麓に十一面観世音菩薩を安置したのが開基と伝えられています。鎌倉時代、梶原景季(かげすえ=景時の嫡男)が、阿蘇大宮司家に巻狩の古式を学んだ際、久住山の山麓で巻狩を試したときの獲物となった鹿や猪の御霊を鎮めるため、寺号を「久住山猪鹿狼寺」と改めたと伝えられています。斯様に、久住は古くからの歴史のある土地と言えます。
久住高原
国道442号を北西に進むと、道路脇に「日田往還松並木」の標識に出会い(左画面)、隣に供養塔がありました(中画面)。「日田往還」とは、「日田街道」とも呼ばれ、江戸時代に九州6ヵ国の天領を統括する為に整備された街道のことで、この辺りには所々に立派な松(右画面)が生えています。
野外劇場TAOの丘
更に、国道442号を北西に進むと、真新しい野外劇場「TAOの丘」(左画面)に至ります。この野外劇場の建物の先は広大な広場が展開し、与謝野晶子の歌碑(中画面)や、阿蘇五山の遠景が見事に展開しています(右画面)。この歌碑には、変体仮名で、「久住山 阿蘇の左可比越 寸留多ニの 楚土ハ 飛多左遍 難き春曽能可奈 与謝野晶子」とあり、下の解読文では「久住山 阿蘇のさかひを する谷の 外は襞(ひだ)さへ 無き裾野かな 晶子」とあります。
説明文がありました。
昭和6年10月久住町出身の門下、後藤是山氏に招かれた与謝野寛、晶子夫妻は、久住町を訪れて山と髙原を題材として数多くの歌を詠みました。 この歌は、その時の代表作とされるものです。 また、南登山口「星ふる館」前には夫妻の歌が一基ずつ、畜産試験場入口には晶子の歌が一基建立されています。 碑文は久住町出身の書家 壽髙圓(?)本名首藤 寿によるものです。
平成5年3月 久住町教育委員会