豊後街道を辿る その26

県道216号の先に大利橋があり、ここを渡り、500m先が県境ですが、標高差が100mもある坂を上ります。この先の「境の松坂の石畳」は見事に原型を留めており、美しい石畳です(左画面)。坂を上って行くと右側は険しい谷なので、左への急曲りとなります(中画面)。右画面は、この石畳の終点です。

坂道を登り切ると、そこは豊後国(大分県)との国境です(左画面)。中画面は、肥後側の標識です。右画面は、奥に大分県竹田市の案内板が見えますが、この案内板には次のような解説があります。

ようこそ豊後国(大分県)へ  歴史の道 豊後(肥後)街道

徳川幕府は大名統制のため寛永12年(1635)、1年おきに江戸幕府と在国を繰り返す参勤交代を制度化した。  肥後藩の参勤交代道の一つ豊後(肥後)街道は、熊本城から大津宿・二重峠・的石・内牧宿・坂梨・滝室坂を経て、県境の境の松から大分県の久住宿・今市・野津原宿・鶴崎宿までの124キロで、当時は5日間を要した。この街道には、熊本城を起点として4キロごとに一里塚が設けられており、神馬(かんば)の石橋と久住宿の間にある一里山石燈籠は18里目と考えられている。  幕末の嘉永6年(1853)、ロシア艦隊が長崎に入港したことを聞きつけた吉田松陰は鶴崎に上陸し、豊後(肥後)街道を通って長崎に向かっている。  また、文久4年(1864)、幕府からの特命を受けた勝海舟は佐賀関に上陸(徳応寺に宿泊)し、豊後(肥後)街道を通って長崎に向かっている。その際、勝海舟と師弟関係にあった坂本龍馬も同行したといわれている。

この国境の案内図には、米賀橋(大分県竹田市久住町)まで約3.3kmとありますが、左画面の眼鏡橋が米賀橋です。また、豊後街道の先には、上馬(かんば)の眼鏡橋(中画面)、一里山の石灯籠=熊本から18里目(右画面)と、史跡が続きます。

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