豊後街道を辿る その32

この旧宅は、大分県竹田市竹田町の西側に位置しますが、この門前の左に設置された説明板(左画面)には、次の様な解説書がありました。

廉太郎旧宅
瀧廉太郎が十二才から十四才までの二年半、多感な少年時代を過ごしたのがこの家です。  瀧家は代々日出藩(現在の大分県速見郡日出町)の家老をつとめた名門で、廉太郎の父==吉弘は岡藩の家老をつとめた後、上京し、大久保利通伊藤博文の右腕として中央で活躍した人でした。  明治24年、父==吉弘は大分県直入郡長に任命され、12月の半ば、廉太郎は家族とともに竹田に移りました。その折、瀧一家に官舎としてあてがわれたのがこの家でした。この家は、もともと岡藩藩主中川家の家臣をつとめた岩瀨家の由緒ある屋敷で、当時は三百坪近い大きな侍屋敷でした。  当時の竹田は、岡藩の城下町、九州の小京都として、しっとりとした風情をたたえた、文化の香り高い町でした。「遊芸の町」とも言われ、茶道、華道はもちろん、多くの人が謡曲、仕舞、三味線、琴などをたしなんでいました。廉太郎は竹田高等小学校に通いながら、城下町のさまざまな響きや風景、地域の素晴らしい自然に囲まれ、この竹田の町で音楽の道に進むことを決心したのです。  家の前の湊川や裏山の竹藪の響きを聞き、芝居や謡曲の好きだった父親、ヴァイオリンをたしなんだ姉たちのいる家族と暮らしたこの家は、廉太郎の感受性を豊かに育て、後に数々の素晴らしい音楽をつくりだす源の一つとなりました。  この旧宅では、廉太郎が聞いていたと思われる、当時の家や庭の音、竹田の町の響きを復元するいくつかの工夫をしています。

右画面は、その母屋です。

又、左画面の石灯籠の脇にある説明板の内容は、次の通りです。

  きつねの親子

家の縁の下にキツネの親子がすみつきました。 廉太郎は大の動物好だったので、このキツネの親子のことをとても嬉しく思っていました。 「廉ちゃーん、でたよー」。 お母さんが縁の下からでてきたきつねをみていうと、廉太郎は油揚げを放り投げ、親キツネが食べるのをじっと眺めていました。 夕方になるときつねはいつも現れ、こうしたことは廉太郎の日課となりました。

中画面の岩穴の横にある説明板の内容です。

◎ 洞穴の馬小屋

凝灰岩をくりぬいた大きな洞窟。入口の上には、「宝永六年」という文字がうっすらと見られます。  元持ち主であった岩瀨家が、昔、漬物や炭、薪など入れておくために掘ったものだという話、一時は蒸風呂として使われていたらしいという話などが伝わっています。しかし、この洞窟が実際にはどのような目的で掘られたかについてはわかりません。  瀧吉弘郡長が赴任してきたときには、馬小屋として使われていました。廉太郎の父==吉弘は乗馬に堪能で、神奈川県少書記時代に、ハワイ皇帝が横浜に来遊した時、馬に乗って警護の大任を果たし、ハワイ皇帝から騎士長勲章をもらったほどでした。吉弘は竹田にくると馬を飼い、馬丁嘉次と共に日曜には郊外での乗馬を楽しんだということです。

◎ 庭の響き

この旧宅では、廉太郎が聞いていたと思われる、当時の家や庭の音、竹田の町の響きを復元するいくつかの工夫をしています。

○ 飛び石と下駄==当時の竹田ではこどもたちをはじめ、多くの人が下駄をはいて暮らしていました。町には下駄の音が響き、この家でも廉太郎が庭の飛び石を下駄で歩く音、縁石の響きなどが聞こえていたでしょう。

○ 竹の響きと雀の鳴き声==竹林のざわめき=竹が風にしなる音、サラサラいう葉の響き=裏山の竹藪にはよくすずめがやってきて、さえずりを交わしていました。幼稚園唱歌「すずめ」はここから生み出されたといわれます。

○ 溝川の響き==竹田には、井出(側溝)が町中をめぐり、かつては清らかな水の響きが絶えませんでした。また、今では暗きょとなっている旧宅前の溝川のボコボコ=という不気味な音は、「溝川のおさん」という伝承の妖怪のたてる音とされていました。その響きを廉太郎はとても怖がったといいます。 ここではそれらの響きをしのぶため、庭園内の側溝を復元、利用しました。

○ 井戸の響き==阿蘇の伏流水である竹田の名水は廉太郎を育てた「水」です。洞窟横の井戸は、旧宅改修の過程で発掘され、復元されたものです。この井戸の響きを始め、廉太郎は竹田のいろいろな「水」=滝・川・溝川・池・に囲まれ、その水に触れ、音を聞き、その流れを眺めて少年時代の日日を過ごしました。

右画面は、上記で解説されている井戸です。

この「瀧廉太郎旧宅」は、「瀧廉太郎記念館」として利用されており、一階の中央には廉太郎が尺八を吹く銅象がありました。右奥には、当時のままのオルガン、左には演奏用の新しいアップライトのピアノが置いありました。尺八についての説明文です。

廉太郎が竹田で初めて手にしたものの中に尺八があります。 廉太郎はある日の酒宴で尺八の吹奏を聞きそのメロディーの美しさに感激し、深い興味を持ちました。 名曲「荒城の月」のあの美しい、そして哀切きわまりないメロディーのなかには尺八から生じた音律がにじみでているといわれています。

左画面は、多数展示されていた楽譜や写真等の一部です。中画面のバイオリンについての解説です。

このバイオリンの制作者である小沢僖久二さんは、世界一流といわれる、イタリアのストラディバリのようなバイオリンを作ることを夢みて、太平洋戦争への出兵、結婚を夢見た女性の死などを乗り越え、農業を営みながら300丁以上のバイオリンを全くの手製で製作しました。 このバイオリンもその一つで246番目に製作されたものです。 小沢さんのバイオリンは演奏家に高く評価されており、また、小沢さんの劇的な人生はアニメ映画「星空のバイオリン」にもなりました。

右画面の肖像画は、二階の廉太郎の部屋に飾られていました。

豊後街道を辿る その32” に対して2件のコメントがあります。

  1. 武田智孝 より:

    瀧廉太郎についていろいろ未知の情報を書いてくれて有難うございます。
    先日YouTubeで奥田良三の「荒城の月」を聞いて感動したばかり。
    https://www.youtube.com/watch?v=jvDRhqqhqzM
    奥田良三は藤原義江とほぼ同時代のテノールですが、ハーフの藤原と違って純日本人で端正な歌い方をする名歌手でした。一番よく声の出る時期を戦争で奪われたことをとても残念がっていましたね。彼の歌った日本歌曲はSP録音ですが、今YouTubeで聞いても感銘を受けます。

  2. 高見洋三 より:

    武田智孝様 
    コメントありがとうございます。豊後街道の近くに、瀧廉太郎所縁の地があったとは、全く知りませんでしたが、ハイヤーの運転手さんの案内で瀧廉太郎記念館を訪問することができました。全くの偶然でしたが、本当に良い体験ができました。小生も音楽好きで、「荒城の月」は貴殿同様の印象を持っていますが、廉太郎が少年時代によく尋ねた近くの岡城が、この歌の原点そのものだったのですね。作詞は土井晩翠で、対象の城は仙台の青葉城址のですが、この元歌をベースに岡城をイメージして作曲されたようです。

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