豊後街道を辿る その34
鶴崎船着場跡
今市の石畳道から一挙に鶴崎に飛びました。この間については、野津原町商工会のホームページに詳しく掲載されていますので、そちらを参考にして下さい。
鶴崎駅前の案内板を頼りに史跡巡りを開始、先ず日豊本線沿いを500mほど東に進むと、「新堀公園」に辿りつきますが、ここに、左画面の看板と「熊本藩主参勤交代時船着跡」の石碑(中画面)がありました。案内板の内容です。
鶴崎の町と川と港
関ヶ原の戦い(1600)の功績により、徳川家康からここ「鶴崎」を領地として拝領した加藤清正は、この案内板の前を流れていた鶴崎川(前川または古川ともいわれた)を掘削し、港として整備しました。鶴崎から大坂(現在の大阪)へ行くには、瀬戸内海を船で行くのが最速と考えたからです。 加藤家の領地を引き継いだ細川家も、港をさらに整備し、参勤交代の経路として利用しました。参勤交代時には、数十隻の船団を組んで瀬戸内海を航行した記録が残されています。船を造る船大工や船頭などもこの近くに住み、船頭町や御加子町(船をこぐ水夫が住んでいた)という地名が残っていました。 江戸時代、港は物流の拠点としても利用され、鶴崎の町とともに大いに賑わいました。 明治以降、土砂の堆積により川が浅くなって港としての機能が衰退していきましたが、大正3年に大分駅から東に鉄道(日豊本線)が延長されたときには、まだ川は残っており、その名残がこの案内板の前に見える鉄橋です。その後、鶴崎川は埋め立てられ、昭和12年に、日豊本線の北側に、日本染料製造(株)鶴崎工場(現在の住友化学(株)大分工場)が作られました。この辺りは、鶴崎の昔が偲ばれる場所です。
細川侯参勤交代の経路図
この図は、肥後細川侯の参勤交代時の主な経路を示したもの。鶴崎で乗船の場合は、瀬戸内海を東進し、室津(現在の兵庫県たつの市)で上陸。大坂、伏見などを経由して、東海道若しくは中山道を通って江戸に向かった。熊本―江戸間は30~40日。 熊本から、豊前街道を通って大里(福岡県北九州市門司区)から乗船する場合には、船団を鶴崎から大里まで廻した。
明治維新前の鶴崎港
この絵図は、昭和6年(1931)に矢野又彦氏によって描かれた模写絵。 豊後国第一の大河「大野川」(白嵩川ともいわれた)の河口に位置する鶴崎は、瀬戸内海から大坂を結ぶ海の玄関口として、参勤(交代)と文物交流の役割を担った町である。 大野川本流から左に廻流する鶴崎川の左岸に大きな船入(船だまり)である堀川があり、その入り口には大きな灯籠台(灯台)が置かれている。これより下流左岸には、供船の鳳鱗丸・福寿丸・千歳丸を繋留する三艘堀、供船の住吉丸・永代丸を収納した船蔵、小早船などの小規模の供船を繋留する総掘、細川侯の御座船「波奈之丸」を繋留する御船堀が並んでいる。河口には、船の出入りを見張る番所が置かれている。
新堀公園を南に下る途中に、右画面のような普通の自宅に、何気なく「秋山玉山旧宅跡」の石柱が建っているのが目に入りました。さすが歴史の町です。秋山玉山は、江戸時代中期の漢学者で熊本出身です。
鶴崎御茶屋跡
鶴崎小学校の校門に辿りつきました(左画面)。ここは鶴崎御茶屋跡になりますが、校庭の反対側(東側)のフェンスには二枚の説明板が掲げられていました(中画面)、(右画面)。中画面の概要は次の通りです。
鶴崎御茶屋 ーー 肥後熊本藩の藩主宿泊所 ーー
「鶴崎御茶屋」のはじまり
慶長6年(1601)肥後熊本藩主となった加藤清正は、豊後鶴崎を所領とし、肥後から瀬戸内海への玄関口となる重要な港町として整備をはじめました。その中心に藩主の宿泊所として建設されたのが鶴崎御茶屋で、寛永9年(1632)加藤氏から替わった細川氏にも受け継がれました。肥後藩の御茶屋は、鶴崎の他に佐賀関、野津原、久住にも設けられましたが、御茶屋を街道筋から離れた場所に置き、周囲を耕作地や、堀・土塁で囲むなど、他の御茶屋に比べて鶴崎御茶屋は、より防御的な構えになっていました。
御茶屋の機能
御茶屋は、藩主宿泊所としての機能を持つだけでなく、豊後における肥後藩領を治めるための重要な拠点であり、総責任者の鶴崎番代、農村の支配などに責任を負う鶴崎郡代以下、多くの役人たちが勤務する場所でした。御茶屋の内部には郡会所や各種詰所などの役所、郡代の役宅、銀蔵(金庫)や武器庫、文武の稽古所、幕末には藩校成美館も設けられ、正面前には番代の役宅があるなど、政治・経済・軍業の中心として肥後藩の支所のような役割を果たしていました。
江戸時代の「鶴崎町」
鶴崎町は、江戸時代を通して肥後藩領で、参勤交代の経由地となり、藩の用務船が行き交う港湾都市に発展しました。堀川を含む藩の港が設けられ、船方根拠地として多くの船を保有し、船手の武士も多数居住していました。町は中心部を東西に縦断する街道と、これに直交する南北の小路とで規則的に形づくられていました。御茶屋を中心とした諸役所や武家屋敷が置かれた「鶴崎小路」と呼ばれる地域と、その外側に広がる町人町からなる、城下町的な景観が見て取れます。宝暦6年(1756)以降は、肥後藩に公認されていた五ヵ町(熊本・八代・高瀬・川尻・高橋)に準ずる「准町」に位置づけられました。
右画面の概要は次の通りです。
鶴崎歴史案内
鶴崎の歴史
ここ「鶴崎」は、大分県のほぼ中央に位置し、東側を大野川、西側を乙津川に囲まれた中洲にあり、標高は数メートル以内の平坦な土地上にあります。北側は別府湾に面しており、昔から海上交通の要所として栄えてきました。 鶴崎は、鎌倉時代以降は、大友家領地の時代、加藤家領地の時代、細川家領地の時代、そして明治維新以降は大分県として歴史を刻んできています。
大友家領地時代 13世紀初頭、大友家初代能直は、鎌倉幕府から「鎮西奉行・豊後守護職」などの職に任じられました。文永8(1271)年、鎌倉幕府は、西国に所領を持つ守護に対し、モンゴルの襲来(元寇)に備えるよう命じ、第三代頼泰も九州に下り、大友氏は豊後に住むようになりました。第二十一代宗麟の時代の天正14(1586)年薩摩島津軍が豊後に攻め込んで来て、「鶴崎城攻防の戦い」、「乙津川(寺司浜)の戦い」がありました。天正15(1587)年に宗麟が亡くなり、文禄2(1593)年、第二十二代義統は豊臣秀吉から領地を没収され、約400年続いた大友の支配は終わりました。
加藤家領地時代 慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの功績により、加藤清正は、徳川家康から、豊後のうち「鶴崎・佐賀関・野津原・久住」に約2万5千石の領地をもらい、鶴崎は加藤家の領地となりました。清正は、鶴崎に「鶴崎御茶屋」を作り、「法心寺(日蓮宗)」を建立し、港や町並みを整備しました。清正の死後、その子忠広が後を継ぎますが、寛永9(1632)年に加藤家は改易されました。
細川家領地時代 加藤家改易の後、豊前小倉城主であった細川家第三代忠利が肥後を与えられ、豊後のうちの元加藤家の領地もそのまま引き継ぎました。細川家は、鶴崎の町並み、港を整備するとともに、行政組織も整備しました。参勤交代の際は、阿蘇を越え、鶴崎の港から大坂周辺まで、たびたび船で往復しています。「けんか祭り」で有名な「劔八幡宮」は、細川家により、正保3(1646)年に建てられました。文化7(1810)年には、伊能忠敬が鶴崎方面を測量し、また文久4(1864)年には、勝海舟が坂本龍馬らを伴って佐賀関に上陸して長崎まで往復した時、ここ鶴崎に宿泊しています。
明治時代以降 明治維新後、鶴崎は大分県となり、市町村合併により鶴崎町から鶴崎氏となり、昭和38(1963)年3月10日大分市となりました。 昭和60(1985)年毛利空桑の遺品を集めた「毛利空桑遺品館」が建てられ、毛利空桑の旧宅「天勝堂」、塾跡「知来館」を含め「毛利空桑記念館」として公開されています。