奇遇

私の祖父母が熊本を離れ、上京して以来、私は田舎を失った。とは言っても私の知っている田舎は、一家が韓国より引き上げた直後に熊本に立ち寄った折りに、一度だけ訪れた様な記憶が僅かに残っている。当時は、3才であったため、無理もない話だ。中学時代に横浜の瀬谷というところで生活していた頃、夏休み前になると、友人たちはこぞって、田舎に行くと嬉しそうに話をしていた。田舎を持たない私は、取り残された様な寂しい気持ちがして、それが忘れられなかった。

定年近くなって、自分が田舎を作り、子供や孫たちを喜ばせようと奮起一転、あちこちと田舎の候補地を探し歩いた結果、2002年になって運良く伊豆高原の一角に、築10年の小さな木造平屋建を得ることができた。最初の3年間は、週末に通い、什器・庭・畑の整備を行なっていたが、移転して5年程経過後の2011年に伊豆半島ジオパーク構想が生まれ、伊豆半島そのものに興味を掻き立てられ、色々と勉強をし始めた。その中に「宇佐美・御石ヶ沢石丁場跡」の紹介があったので、2016年3月に現地(ナコウ山)を訪れると、何と「羽柴越中守石場」の標識石が確認できた。「羽柴越中守」とは、言わずと知れた細川忠興公のことである。何という奇遇だろうか! 終の住み処として選んだこの伊東の土地が、細川忠興公ゆかりの地であったとは!

上記画面の標識石は、慶長九年(1604)に始まった江戸城の大拡張工事の一環として、西国の外様大名に対して築城石を採取運搬すべき命令を下した折の名残と言える貴重な史跡である。当時の忠興公は、三十九万九千石の小倉城主であったため、百人持石(約4トン)を4,300個以上の拠出割当が課せられたと言われる。

当家初代の和田庄五郎重治は、文禄2年(1593)に羽柴大納言秀長公の小姓であった時、忠興公に所望され、200石を拝領し、忠興公の嫡男忠隆公の付人として、岐阜城の戦、関ヶ原の戦に参戦、忠隆公が廃嫡・高野山にて剃髪されるまで、その大役を果たしたが、その後、越前中納言(結城秀康公)に仕え、秀康公御卒去の後に浪人となっていたところ、慶長16年(1611)に小倉城への帰参が許され、500石を拝領、御番頭を仰せつけられ、その折に名を和田庄五郎から高見権右衛門へと改めた。更に、当家初代が今際の折に、忠興公に息子二人を託したところ、快く引き受け頂いた書状が残されている。

以上の通り、細川忠興公と当家初代の関わりは、互いの子供を通じた強い絆が感じ取れる それだけに今回の地元での忠興公の遺構の発見は、感慨深いものがある。

これをもちまして、「ルーツ探訪」のブログを一旦終了させていただきます。長きに亘り閲覧いただき、ありがとうございました。

奇遇” に対して2件のコメントがあります。

  1. 武田智孝 より:

    こういうことってあるんですねぇ。大兄の場合は感動的ですが小生はむしろ逆。
    実は小生は日蓮宗の寺の生まれなのですが、寺を継ぐのが嫌でお経も覚えず唱えられず、ずっと宗教とは無縁なところで生きてきて、ただ子供たちがみな首都圏に暮らしていることもあって何となく伊豆にやって来たしだい。ところがこちらに来て驚いたのは日蓮の遺跡の多いこと。鎌倉幕府に迫害されて伊豆に流刑され、俎板岩への置き去りを始め様々な法難に遭ったせいで遺跡が多いのだと気付かされました。日蓮宗の寺から逃げまくってあげくの果てに人生の終わり頃になって日蓮に巡り合うなんて、祟りだなんて思いませんが、不思議な気がしています。別段これによって信仰心に目覚めたりなんかはしていないのですが。

    1. 高見洋三 より:

      武田智孝様
      実に新鮮なるコメントありがとうございました。小生も伊豆に移住以来、日蓮宗の遺跡の多さにはすぐに気が付きました。移住は、人生にとって大きな刺激を与えてくれるものなのですね。

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