豊後街道を辿る その36 完

左画面は、肥後熊本藩藩主細川公の歴代の御霊が祀られている鶴崎の出水神社です。中画面の「御遷座記念碑」とあるように、元々の御霊が祀られていたのは別の場所の「住吉神社」であったようです。この記念碑の日付は、昭和37年4月と刻まれています。右画面の石版には次の様なことが書かれています。

住吉神社の建立は、享保14年(1729)酉3月徳島のJRガード西側に位置していた。船方より海上守護の神として細川侯江戸へ参勤交代として途中海上安全を祈るため、堀川より出帆。現在は劔八幡宮の中の出水神社に昭和36年合祀された。なお、船方として石灯籠に船頭・御加子で一対残されていたが、現在は船頭の片方しかない。
  平成30年中央区自治会住民により修復。

この内容により、元々の細川侯の歴代の御霊が祀られていたのは「住吉神社」であることがわかります。

上画像は、江戸時代後期の鶴崎の地図ですが、これによると、元々の「住吉神社」は、地図北に流れている鶴崎川(前川)の南岸に築かれた二つの船置場に挟まれた所に位置していました。

左画面は、「出水神社」の南側に位置する劔八幡宮です。正保2年(1645年)の創建で、行方不明だった宇佐神宮神宝の剣が発見されたことに由来する八幡宮で、剣が発見されたことを聞いた肥後熊本藩二代藩主の細川光尚公は嫡男綱利公の誕生にあわせ、これを吉事と喜び、社殿造営を命じたといわれている由緒ある神社です。中画面は、この神社に奉納されている「細川侯参勤交替鶴崎入港の図」です。訪問当時、幸いにも宮司様と親しくお話をさせていただき、この絵図の原画を拝見することが出来ました。宮司様のお話によると、画像が色あせてくるたびに上書き清書をされるとのことで、拝見させていただいた絵図は海の色が白く描かれ、とても明るい印象でした。写真に収めることは許されましたが、残念ながら、公開は許されませんでした。

右画面は、「肥後藩主初御入部御行列絵図」でその絵巻の長さは35メートル、幅31センチで、描かれた人物は870人余と言われる膨大な絵巻です。いずれも、2018年に大分市鶴崎公民館で公開された絵図です。

これらの絵図の対象となった事象は、嘉永元年(1848)細川慶前公(雅之進様)が24才でお亡くなりになり、弟君の韶邦公が父斉護公の養子となり、斉護公が万延元年にお亡くなることによって、韶邦公が熊本藩第十一代藩主となられ、その折に熊本へお国入り(入部)された絵図になります。

この項をもちまして、「豊後街道を辿る」は終了致しますが、最後に宮司様とお別れの折に、わざわざ庭師の方に、小生を鶴崎駅まで送るようにとの、ありがたいお言葉を賜り、ご厚意に甘えさせて戴きました。旅行鞄をガラガラ引きながらの参拝でしたので、不憫を感じられたのでしょう。この旅を通して熊本・大分の方々の種々の親切に接することができました。ここに、深く御礼をさせて戴きます。

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