豊後街道を辿る その25
大利石畳道路
県道216号脇の「水恩碑」隣にある標識(左画面)に、「大利石畳道路」とありますが、これは大利にある「弁天坂石畳」と「境の松坂の石畳」を意味するようで、いずれも国指定文化財です。中段の道標には「境の松の石畳」とありますが、これは「境の松阪の石畳」が正しい表示で、旅人の吾々にとって、道標は大変貴重な情報なので、十分配慮して欲しいところです。中画面の道路の左には、「弁天坂の石畳道路」の案内がありました。右画面は端正な石畳で、しっかりした排水溝が付いている「境の松坂の石畳」です。「弁天坂の石畳」は延長88m、道幅の平均は3m、標高差は約20mあります。「境の松の石畳」は延長162m、道幅の平均2.3m、標高差は約40mあるようです。
大黒石
県道216号からの分岐をしばらく下りると、左側に大きな石があります。これが「大黒石」で、旅人が願かけのために石を放り、楽しんだと言われています。
御休所
更に進むと、右側に道標がありますが(左画面)、ここには次の様な説明書がありました。”「御休所址参勤交代道」 殿様が駕籠から降りて休息し、お茶を差し上げた所で、「御休所」と呼ばれています。” 中画面は、昭和28年6月の水害による水難碑「殉難碑」で、その脇には大正13年建造の石柱の道標があり(右画面)、そこには、左 白丹、久住 右 笹倉、阿蘇と書かれています。
この道標からすぐに、県道216号と合流します。まもなくこの県道は終点となりますが、この終点には上図のような案内板がありました。内容は次の通りです。
歴史の道 豊後街道
徳川幕府は、大名統制のため寛永12年(1635)1年おきに江戸在府と在国をくりかえす参勤交代を制度化した。肥後藩の参勤交代道の一つ豊後街道は、熊本城から大津、二重峠、的石、内牧、坂梨、笹倉、大利を経て大分県の久住、野津原、鶴﨑港までの121キロで、当時は五日間を要した。 産山村内の街道は、阿蘇市(旧波野村)境の壁谷から大分県境の松までの4キロで、道の両側には松が植えられた。 熊本城を起点に4キロ毎に設けられた一里塚が十六里にあたる谷大利にあり、通称一里山と呼ばれている。また、近くには、藩主の休憩場所である御休所跡もある。 弁天坂、境の松坂は、二重峠、滝室坂と並ぶ急峻な坂であり、土砂崩壊が激しく、公役で道普請を行った地元民の苦労は、大変なものであった。 弁天坂、境の松坂の両坂に現存している石畳は、文化4年(1807)から4年間かけて、久住手永の惣庄屋久住善兵衛のもとに、地元民の公役によって造られたものである。 歴史の道を踏み締めて、当時の旅人の気持ちをしのびながら、ゆっくりと歩を進めてください。
国指定史跡 豊後街道 ・弁天坂の石畳(1.2km) ・境の松坂の石畳(0.7km)
平成25年7月10日 指定 文化庁 熊本県 産山村