豊後街道を辿る その24

「水恩碑」から216号を別れて(左画面)、200mほどで右手に鶏舎がありますが、その手前を左に下るのが豊後街道ですが、この左の分かれ道(中画面)に気付かず道に迷い、先に進めませんでした。以下は、紹介されている内容を転記します。右画面の標識から1,500mほどは山道に入ります。

左画面は、「弁天坂の石畳」の始まりの地点です。中央奥には、中画面のような道しるべがあります。この石畳は苔むしています。

「弁天坂の石畳」を下ると、左画面のように「くらかけ櫟」の標識があり、この細道の階段(中画面)を上ると「鞍掛櫟」があります。説明板には次の様に書かれています。

日本一の大櫟(くぬぎ) 鞍掛け櫟

樹高20m 枝張 東西10m 南北13m  樹径0.91m 幹回2.9m 樹齢推定630年

由来: 七福神は福徳賦与の神として知られ、そのなかの弁財天は美女の形容詞で、弁天様と言われ親しまれている。弁財天が山鹿の祠に帰る途中の坂が急で、乗っていた鞍が牛の首まで下がったため、道の傍にあるこの櫟の枝に鞍をかけて休息したことから、鞍掛櫟といい、その坂道を弁天坂と呼ぶようになった。この櫟には母を思わせる豊かな両の乳房に似た瘤があり、これを弁天の乳房という。  昔旅人が精魂尽きて、この櫟の下に眠っていると、優しい女の袂に抱かれ乳を飲む夢を見ていた。朝の光に目が覚めると櫟の落葉が蒲団のように、体を包み瘤乳から露が雫となり口に注がれていた。櫟の精を吸った旅人は、体力を快復して、再び旅を続けたという。以来女性は、この瘤にさわると乳を授かると、伝えられ、今日に至っている。

注: 櫟はぶな科で全国に分布し椎茸原木、薪炭材として利用されている。この櫟の大きさ、樹齢とも日本一といわれ、産山村の材木にも選定されている。古名を「ツルバミ」と呼び、実を染料に用いた万葉植物の一つ。万葉集巻十二のなかに

「つるばみの、 一重衣の、 裏もなく、 あるらむ子ゆえ、 恋ひわたるかも」と詠われている。    産山村教育委員会

豊後街道は、「鞍掛櫟」を更に北上すると、大利川に至り、この川沿いに大利の石畳がありますが、一旦県道216号に戻り、すぐ東の「日吉神社」を参拝しました。この神社についての説明板がありました。ここも参勤交代に大いに関係があったようです。

大利日吉神社の由来
  祭神  大山作神(くいのかみ)

創建の経緯は定かでないが、正保年代(1644~7)に肥後藩の参勤交代の旅の安全を祈願して、山中638番地に建立したと伝えられている。以来大利地区の産土神として崇敬されてきた。第二次世界大戦後、農林業構造の変化、度重なる自然災害等によって集落形態が変わり神社が遠隔地となり、道路のふびもあり、参拝が疎遠になってきた。老朽化も重なり平成20年区総会で新築移転が決議され建設委員会が始動、財源の確保、建築規模及び方法、業者の選定、周辺整備等に鋭意尽力し、社のお仮屋跡と伝えられてきたこの地に同年8月着工、翌年4月竣工、祭神が旧社より鎮座された。尚、建設に要した桧材や資金は、先代が昭和の中期に育林等すべて人力で災天下や風雨雪の中筆舌に尽くせぬ労苦に耐え、永々と蓄積された貴重な森林資源が充当された。 改めて先人の遺訓に感謝し次代に向け鎮守として地域の安全と繁栄を祈念して建立する。 平成21年4月吉日

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