豊後街道を辿る その23

国道57号と県道40号と交差する信号から400m先の交差点を北上する豊後街道は、すぐに二手に分かれますが(左画面)、ここを右に下ると、700m程先の左側の土手に看板があり(中画面)、そこには、十五里塚であることが示されています(右画面)。

「十五里塚」から約1.1km東へ進むと、県道216号にぶつかりますが、ここがへき谷の交差点で、阿蘇と産山の境界点です。左画面のように、道標がありますが、ここには、「左 ならきの(楢木野地区)、なんこう(南阿蘇村高森町南郷谷)」、正面には「前 熊本・鶴崎道」と書いてあります。ここは、へきたにはし(壁谷橋)という名の橋のたもとです。左折して壁谷橋を渡ります。

「壁谷橋」から、県道216号を北東へ800m程進むと、交差点左奥に「水恩碑」があります(左画面)。この水恩碑には、次のような説明がありました。

阿蘇東外輪の畑地帯に玉蜀黍(なんばんきび=トウモロコシ)、菜種、蕎麦等の貧弱な穀作農業が行れていたが、明治21年3月より原片、俣原、大利、25人の有志により、水源有馬ヶ淵より導水工事が行れ、明治24年6月12日全線約八粁が完遂。10ヘクタールの開田が行れた。測量工法等未熟な時代であったが、これによって米作農業が始った。更に昭和29年53人による土地改良区が創立され、5ヶ年間に亘って三方コンクリート工事が実施された。 本事業により漏水災害防止が出来て12ヘクタールの作付が可能にになり、現在の農業経営の基盤が確立された。
茲に先祖の労苦を偲び水恩碑を建立する所以である。
昭和49年5月建立

また、左手前には産山についての説明がありました(一部割愛しています)。

歴史の道 豊後街道

産山村内の街道は、阿蘇市(旧波野村)境の壁谷から大分県境の境の松までの4キロで、道の両側には松が植えられた。 熊本城を起点に4キロ毎に設けられた一里塚が十六里にあたる谷大利にあり、通称一里山と呼ばれている。 また、近くには、藩主の休憩場所である御休所跡もある。 弁天坂、境の松阪の両坂に現存している石畳は、文化4年(1807)から4年間かけて、久住手永の惣庄屋久住善兵衛のもとに、地元民の公役によって造られたものである。

国指定史跡 豊後街道 ・弁天坂の石畳(1.2km)・境の松の石畳(0.7km)

平成25年7月10日 指定 文化庁、熊本県、産山村

角の道標には、「弁天坂の石畳 1,200m」、「十六里塚 2,500m」、「境の松の石畳 4,000m」とありましたが、途中で道に迷い、残念ながら引き返しました。

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