豊後街道を辿る その22

国道57号の「駕籠置場とカヲの墓」から4km先にミルクロートとの交差点があります。この辺りの国道の左には凹道の形をした川が並行していますが、これが豊後街道の旧街道とのことです(左画面)。この交差点から1.4km先に「四里塚」のバス停があります(中画面)。この「四里塚」の集落は、久住からここに移住した人々によって開発されましたが、この地が久住から南西に4里に当たる場所なので、このような名がつけられたとのことです。このバス停の北奥の凹道の旧豊後街道(右画面)の近辺に十四里塚跡があったそうで、今はその案内板があるのみです。

「四里塚パス亭」から東に2.2km進むと、道の駅波野に至ります(左画面)。中画面の案内板には、波野について次の様に紹介されています。

地域の紹介

阿蘇市波野は、九州のほぼ中央、阿蘇外輪山の草原がゆったりと波打ちうねる高原の中にあります。九州で一番高い波野駅があり、すずらんの花が咲く高原の地として有名です。緑の高原の中に萩岳がそびえ、ここに登ると、西に白煙流れる阿蘇、北に久住連山、南には祖母・傾の峰々がダイナミックに迫ってきます。 また、本地域は神楽の里としても全国的に知られ、中江岩戸神楽横堀岩戸神楽の伝統芸能が今も受け継がれています。

又、右画面の案内板には、次の笹倉の宿場についての解説がありました。

笹倉の宿場で休息する海舟と龍馬

幕末の文久四年(1863)二月十九日、勝海舟と坂本龍馬は開国を迫る欧米列強の動きを調べるため、鶴崎より豊後街道を急ぎ歩いて、ここ、笹倉の御茶屋でしばし休息、滝室山の頂より阿蘇の山容を眺めて、驚嘆している。 「阿蘇獄に並び立ちたる猫嶽、山頂の大石、剣の如く成るもの、直立す。関東の妙義山に比すれば、さらに一層の奇峰なり。」と(海舟日記より)。一行は翌二十日、内牧を発し熊本本陣に泊り、翌朝、島原へ渡って、目的地の長崎へ向かった。これ以降、明治維新への大きな動きが全国から肥後の笹倉のの地にも及んできた。その時、笹倉の人々の身に何が起こったのだろうか。

「道の駅波野」から国道57号を400m程北東へ進むと、笹倉の集落に入ります。この宿場町は、細川藩の参勤交代では、宿泊地としては使われませんでしたが、当時は、豊後街道と、竹田へ通ずる街道の分岐点でもあったため、それなりの賑わいであったようです。

更に、400mほど進むと、左(北東)へ分岐する道があります。ここに、「参勤交代道石畳」の案内標識が道の左に、道の右には「参勤交代道入口」の案内標識があります。これが豊後街道で、旧道が続きます(右画面)。

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