十二代 高見直熊 (1)
直熊 母右同断 天保十四年六月二十八日生 嶋之助病氣ニ付養子と奈留
後権右衛門止成維新改名まもる(古+心)と称す 剃髪後祖厚与改
妻 田中典儀娘 道
大正六年九月三十日午前二時四十五分 長崎縣南高来郡島原村魁之無何有庵二卒ス 法名 髙見祖厚禅師 熊本市高麗門妙立寺ノ先螢ニ葬ル
妻 道 明治四十五年十一月十日於島原没
法名真鏡院妙貞日禅大姉 高麗門妙立寺ニ葬
志茂五郎 母右同断 早世 法名 篤峯英顔
乙五郎 母右同断 早世
慶應年間任少司儀元称使番と云奉仕中廃藩
となると瓦解春廃藩縣となり白川縣と称春白川縣
十三等出仕諸務課丹出仕明治七年四月四日奉事春
同月二十九日辞職 元治元年長州征討ニ而出軍小荷
駄奉行の職尓て出軍無程退陳熊本尓帰る
小倉侯を護衛侯ハ熊本坪井伊勢屋ニ滞在事鎭静
之後小倉ニ帰れり 明治八年宮内省ニ奉仕雑掌
直熊 母は右とおなじ(武久の実娘 寿喜)
天保14年(1843)6月28日出生 十一代嶋之助が病気になったためその養子となる。
後 権右衛門と改める。明治維新による改名でまもる(古の下が心)と称した。剃髪後は祖厚と改める。
妻は田中典儀の娘 道
大正6年(1917)9月30日午前2時45分長崎県南高来郡島原村魁の無何有庵で死亡。法名は 高見祖厚禅師 熊本市高麗門妙立寺の先塋(センエイ:先祖の墓)に葬る。
妻 道は明治四十五年(1912)11月10日島原にて死亡。
法名は 真鏡院妙貞日禪大姉 高麗門妙立寺に葬る。
志茂五郎(弟) 母は右と同じ 早世したが、法名は 篤峯英顔 である。
乙五郎(弟) 母は右と同じ 早世した。
慶應年間に少司儀(旧称は使番と言った)を勤めていた時に廃藩となり、瓦解して(熊本藩は)廃藩県となって白川県と改められる。白川県十三等に勤め、諸務課に所属した。
明治7年(1874年)4月4日から出勤する。同月29日辞職する。 元治元年(1864年)長州征伐に出軍、小荷駄奉行の職として出軍したがほどなく退陣し熊本に帰る。
小倉の藩侯(小笠原豊千代丸様)を護衛した。藩侯は熊本の坪井(現熊本市中央区坪井)にある伊勢屋に滞在されていたが、事が静まると小倉に帰られた。
明治8年(1875年)宮内省に勤務し雑掌に任じられた。
くずし字解読
左の画像は上記の終わりから4行目だが、分解すると「長州征討ニ而出軍、小荷(駄)」(ちょうしゅうせいとうにて、しゅつぐん、しょうに、)
「駄奉行の職尓て出軍」(だ、ぶぎょうのしょくにて、しゅつぐん)
「無程退陳熊本尓帰る」(ほどなく、たいじん、くまもとにかえる)
「小倉侯を護衛」(こくらこうをごえい)
「侯ハ熊本坪井」(こうは、くまもとつぼい)
「伊勢屋ニ滞在」(いせやにたいざい)
「事鎭静」(ことちんせい)
「之後小倉ニ帰れり」(ののち、こくらにかへれり)
このページの文章の大部分は12代権右衛門直筆のものですが、さすがに明治・大正時代となると、口語調の変体かなが多用され、変体漢文は陰を潜めてきており、大変読みやすくなってきた。あとはくずし字を解読しさえすれば、内容が判りやすくなってきている印象です。