小笠原豊千代丸(小笠原 忠忱)

小笠原 忠忱(おがさわら ただのぶ、文久2年2月8日(1862年3月8日)-

明治30年(1897年)2月6日)は、江戸時代末期の大名。豊前国小倉藩の第10代(最後の)藩主。小笠原家宗家11代。 第9代藩主・小笠原忠幹の次男。正室は上杉斉憲の娘。子に小笠原長幹(長男)、小笠原長丕(次男、兄・小笠原貞孚の養子)、小笠原豊(三男)、娘(津軽英麿正室)、百子(尚昌室)。幼名は豊千代丸。号は錦陵。官位は従三位。兄に貞孚(安志藩主)。

 

生涯

慶応元年(1865年)9月6日、父忠幹が死去する。しかし、嫡子忠忱はわずか4歳という幼年であったうえ、翌年には第二次長州征伐も控えていたため、重臣たちは忠幹の喪を秘した。以後、家老の小宮民部、島村志津摩らにより藩政は動かされた。

第二次長州征伐では、長州藩の攻撃を受け、慶応2年8月には小倉城に火を放って退却した。同年9月、田川郡香春に政庁を設置した。慶応3年1月、長州藩と講和する。

小宮民部は藩祖の小笠原忠真以来はじめて居城を離れたという恥辱の責任を取って自刃している。 慶応3年(1867年)6月25日、父忠幹の死亡を幕府に届け、家督を継いだ。

慶応4年3月、幼少の忠忱に代わり、重臣を上洛させて、新政府に従う姿勢を示した。同年4月7日、新政府に対し、避難していた熊本藩領から本領に戻ることを申請する。

明治2年(1869年)、豊津藩知事となった。明治4年7月15日、廃藩置県により知藩事職を解任される。

明治6年(1873年)1月、明治政府からヨーロッパ留学の許可を得る。明治17年(1884年)には伯爵を授爵された。

明治23年7月、貴族院議員となる。明治30年(1897年)、36歳で死去した

生前の著書に『小笠原流女礼抄』(1896年)がある。

熊本県「地域発ふるさとの自然と文化」より

幕末の慶応2年(1866年)、幕府軍と長州藩による第二次長州戦争が勃発し、長州に隣接する小倉藩は激しい戦場となりました。戦場となった地域の住民は戦禍から逃れるため九州各地に避難し、約1万人が「小倉落人」として熊本に流入してきました。

そのなかには当時5才であった小倉藩主・小笠原豊千代丸をはじめ、家族や従者約30名も含まれていました。江戸時代を通じて藩主が戦争のため他藩に避難した例は小倉藩と浜田藩だけで、このような事態は極めて異例のことです。

豊千代丸一行は阿蘇内牧に逗留しますが、熊本藩のはからいにより11月に広丁伊勢屋に身を移しました。一行は翌年の夏まで約10か月をこの広丁で過ごしました。

残念ながら伊勢屋の場所は現在知るよしもありませんが、当時5才の幼き藩主の目にはこの広丁がどのように映ったのでしょうか。

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