細川護久公

細川 護久 / 喜廷(喜延)(ほそかわ もりひさ / のぶなが)は、肥後熊本藩の第12代(最後の)藩主(藩知事)。熊本藩細川家13代。

生涯

天保10年(1839年)3月1日、第10代藩主・細川斉護の三男として生まれる。第15代将軍・徳川慶喜から偏諱を授かり、喜廷(喜延)と改名する。

幕末期においては、弟の長岡護美(若いときに喜連川藩主の養子となるが出奔)と共に上京して、松平慶永や松平容保らと共に公武合体に尽力した。

また、藩主で兄の慶順に代わって、細川内膳家の長岡忠顕らとともに朝廷との交渉役も務めたという。

慶応4年(1868年)1月、新政府より議定・刑法事務総督に任命される。同年4月23日、新政府側に与する意思を示すため、兄・慶順の「韶邦」への改名に倣って、名を喜廷から護久に戻した。

3月には参与に任命される。そして明治3年(1870年)5月8日、韶邦が佐幕派で新政府との関係が悪かったため隠居となり、代わって護久が跡を継いで藩知事となった。 護久は弟の護美を重用し、藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。

一方で体制一新のため、早くから新政府に廃藩を提言した。明治4年3月と同年5月の2度にわたって藩知事免職を願い出た。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官、同年に白川県(現在の熊本県)知事となる。

明治17年(1884年)、華族令公布に伴って侯爵に叙される。明治26年(1893年)9月1日に死去した。享年55。

戻る