十二代 高見祖厚 (3)

熊本大学付属図書館所蔵 高見家文書 #1001

開基なり為二三齊公御分骨御墓所あり故ニ厚

御菩提をとふらふか多者ら御掃除等をつとめん多め尓

来り住須大正三年七月大患又危篤二到依て

ま壽安次記頼等の多能ミ尓より島原魁村二

家居を求め又無何有庵を建築し天住須是

大正四年夏六月奈里此間ニ種々國家大革命

二逢へり後来之識者可察なり 祖厚 誌

豊 母田中典儀娘 道 林丑人妻となる 丑人早世 娘 よき一人

日子太郎 母右同断 明治二十四年十一月八日卒

熊本高麗門妙立寺二葬 

法名 正覚院迷破居士

満寿 母右同断 明治八年九月二日出生 尚絅高等女学校に多年奉職 後剃

    髪染衣 妙念と称す 大正十一年九月三日卒   熊本高麗門妙立寺二葬

    法名 信力院妙念日唱法尼

安次 母右同断 明治十二年八月七日出生

昭和三十四年一月二十一日没 八十一才

妻 東京市深川区富岡門前川岸六十八号 伊藤恵七 次女 く丹

 昭和五十六年九月二十五日没 九十六才

高桐院は三斎公叔父君が創立した寺であり、三齊公の御分骨の御墓所があるので、厚く御菩提をとむらうかたわら御掃除などを勤めようとこの地に来て住まわった。

大正3年7月大患しまた、危篤になったため、満壽(二女)安次(二男)記頼等の頼みによって島原魁村に家居を求め、また無何有庵を建築して住むことになった。

これは大正4年(1915)夏の6月のことである。この間にいろいろな国家大革命に出会った。後世の識者が察すべきところである。 祖厚が書きしるす。

長女 豊 母は田中典儀の娘 道で、林新九郎長男忍人(うんど)の妻とな     る。 忍人は早世し、その子は、娘 よき 一人であった。

長男 日子太郎 母は右に同じ 明治24年(1891)11月8日死亡 熊本妙立寺高麗門葬 法名 正覚院迷破居士

次女 満寿 母は右に同じ 明治8年(1875)9月2日誕生 尚絅高等女学校(濟々黌の女子部として設立)に長年勤めるが、後に剃髪染衣して 妙念と称した。大正11年(1922)9月3日死亡 熊本高麗門妙立寺葬 法名 信力院妙念日唱法尼

次男 安次 母は右に同じ 明治12年(1879)8月7日出生 昭和34年(1959年)1月21日死亡 享年81歳 妻は東京市深川区富岡門前川岸68号 伊藤恵七の次女く丹

一口メモ

本頁で系図に関する内容はひとまず終了としますが、引き続きテーマを探しながら色々ご案内することに致します。

十二代高見祖厚はご案内の通り、京都の大徳寺高桐院裏に「自在庵」なる庵を建立し、20年以上も妻子と離れ、細川家の菩提を弔いながら謡・書・画・覚・漢詩・和歌等おびただしい数の文芸作品を残してきました。

明治43年には「寒山詩偈讃歌」(和歌287句)を「釋教歌詠全集」に収めています。小生はこの方面に全く疎く、どう評価してよいものやら見当もつかず、紹介できそうもありません。

又、隠遁中にあっても、書状を通じた多方面での交流も盛んであったようです。高見祖厚写真集

上記画像には表示されておりませんが、十二代の次男で十三代を継ぐ「安次」とその妻「久丹」が続きます。これは紛れもなく小生の祖父と祖母であり、ルーツというより完全な身内の立場です。一応簡単に紹介します。 

「安次」は電気系の技術畑技術畑の人間で事業意欲は大変なもので、43歳で満洲に渡り民間飛行会社の設立に挑戦するが失敗、昭和3年には自動交通信号機を発明、特許を得たが米国資本に押され失敗するなど不運が続きました。典型的な肥後もっこすで、晩年は心地よい熊本弁を聞くことができました。

「久丹」は、冒頭で紹介した通り歴史好きで、私にとっては色々と教えていただいた大先生です。また、ひ孫のために毛糸のボールやライオンの大きな敷物を編んで、3家族にそれぞれプレゼントされたのも印象に残っています。96歳までの長生きは晩年まで歴史を学んで頭を使い、編み物を趣味にして、よく手を動かしたことによると思います。

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