南隠全愚老師

1834〜1904 (天保5〜明治37)

天保5年、岐阜県安八郡大藪村(現 輪之内町)の庄屋渡辺家に生まれる。教養豊かな母のもとに育てられる。

17歳より広瀬淡窓、次いで佐藤延陵のもとで学問を修める。

19歳。師延陵が、さる禅院の院主に、悟りとはどういうものかと問うた時、「別にかわったことはないが、お前さん達の声は咽喉から出るが、禅僧は肚から声が出る」との応答が胸に深く突きささり、以後心中穏やかならざるを覚える。

21歳。龍福寺・万寧玄象老師(隠山下 美濃派)について出家、その鉗鎚(けんつい)を受ける。 25歳、万寧老師示寂によりて、岡山・曹源寺の儀山善来老師(隠山下 備前派)に参ずる。

翌年、久留米・梅林寺に転錫、羅山元麿老師(卓州下)の爐鞴(ろはい)に入る。精錬苦修すること8年、遂にその印記を受ける(33歳)。

36歳。丸亀(香川県)・玄要寺に住する。 まもなく寺務を弟子に託して、自身は伊深(岐阜県美濃加茂市)・正眼寺の雷雪潭(かみなりせったん)こと雪潭紹璞老師に通参、悟後の修行に余念がなかった。このとき土地の観音堂に菰を着て起居し、ニ里の道を毎朝通ったという。

45歳。岐阜・栄昌院を復興。生活きわめて枯淡を尊ぶ。51歳にして、虎渓山永保寺(多治見市)に一夏掛錫(修行僧として留まる事)、潭海玄昌老師に参禅、どこまでも衰えることのない向上心で余蘊を尽す。

この年、東京谷中・全生庵に請じられて、住山する。このときの山岡鉄舟との面談の様子がひとつの伝説になっている。鉄舟、師を尚び肯うという

55歳。鉄舟亡きあと全生庵を退き、谷中・頤神院に寓居。

58歳。白山の龍雲院に移る。

64歳。明治32年。龍雲院に禅堂を建立し、白山道場と名付ける。設立の緒言に曰く 「・・・正法の日々衰頽するを憂いて大法を扶起せんがため、小石川なる白山の傍に一の道場を設立せん事を謀れり。是満天下に向かって沃肥の良福田を放開すと謂うべし。云々」

これより僧俗を多数導いた。 南禅寺・河野霧海老師、祥福寺・足利天応老師、東禅寺・霄絶学老師、天龍寺・橋本峨山老師らが参じている。居士に公田連太郎博士等多数がある。 明治37年、白山道場に示寂。世寿71歳。稀有庵、晦蔵室と号する。

「将来の宗教」と題する一文、「南隠老師逸話集」、「南隠老師追憶補遺」(いずれも白山道場編)が遺されている。南隠老師の行履は、「明治の禅匠」(禅文化研究所)に詳しい。

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