36歳。丸亀(香川県)・玄要寺に住する。 まもなく寺務を弟子に託して、自身は伊深(岐阜県美濃加茂市)・正眼寺の雷雪潭(かみなりせったん)こと雪潭紹璞老師に通参、悟後の修行に余念がなかった。このとき土地の観音堂に菰を着て起居し、ニ里の道を毎朝通ったという。
45歳。岐阜・栄昌院を復興。生活きわめて枯淡を尊ぶ。51歳にして、虎渓山永保寺(多治見市)に一夏掛錫(修行僧として留まる事)、潭海玄昌老師に参禅、どこまでも衰えることのない向上心で余蘊を尽す。
この年、東京谷中・全生庵に請じられて、住山する。このときの山岡鉄舟との面談の様子がひとつの伝説になっている。鉄舟、師を尚び肯うという
55歳。鉄舟亡きあと全生庵を退き、谷中・頤神院に寓居。
58歳。白山の龍雲院に移る。