知行推移 四代 三右衛門重故
くずし字解読
曽祖父権右衛門殿書置 重故 | 曽祖父(初代)の権右衛門殿が書き残した文書 四代高見権右衛門重故 |
三斉様御自筆御書入 御朱印入 | 三斉様(細川忠興公)の自筆の御書入と御朱印入を賜る。(ここまでは包みに書かれていたものです) |
覚 | 覚え書き |
慶長十六年九月 忠興公 高見権右衛門 | 1611年9月、初代権右衛門重治の、小倉への帰参に伴い、忠興公から賜る。 |
一 豊前國宇佐郡之内 五百石 | 一 豊前の国の宇佐郡のうち 五百石 知行宛行状と知行方目録 |
但知行方目録別紙ニ有 | 但し、知行方目録は別紙にあります。 |
元和四年六月 忠興公 高見猪之助 | 1618年6月 当時九才のニ代は当時猪之助と名乗っていました。初代がいまわの際に、二人の息子に100石ずつを与えると忠興公からの約束がありました。 |
一 豊前國下毛郡ノ内 百石 | 一 豊前の国の下毛郡のうち 百石 知行宛行状と目録 |
但替地之目録別紙ニ有 | 但し、替地の目録は別紙にあります。 |
寛永三年四月 忠利公 高見猪之助 | 1626年4月 忠利公から ニ代高見猪之助へ。 |
一 豊前國宇佐郡之内 弐百石 | 一 豊前の国宇佐郡のうち 二百石 知行宛行状 |
同七年正月 忠利公 高見猪之助 | 1630年1月 忠利公から ニ代高見猪之助へ。 |
一 豊前國中津郡之内百五拾石加増 | 一 豊前の国の中津郡のうち 百五十石の加増 |
同拾年九月 忠利公 高見権右衛門 | 1633年9月 忠利公から ニ代高見権右衛門へ。 |
一 肥後國玉名郡之内三百五拾石 | 一 肥後の国の玉名郡のうち 三百五十石 |
同十一年十二月 忠利公 高見権右衛門 | 1634年12月 忠利公から ニ代高見権右衛門へ。 |
一 肥後國飽田郡之内百七拾壱石四斗余加増 | 一 肥後の国飽田郡のうち 百七十一石四斗余の加増 |
同十八年八月 光貞公 高見権右衛門 | 1641年八月 光貞公から ニ代高見権右衛門へ。 |
一 肥後國玉名飽田両郡之内五百弐拾一石四斗余 | 一 肥後の國の玉名、及び飽田両郡のうち 五百二十一石四斗余 |
同弐拾壱年七月 光尚公 高見権右衛門 | 1644年7月 光尚公から ニ代高見権右衛門へ。 |
一 肥後國山鹿郡之内三百石加増 | 一 肥後の国の山鹿郡のうち 三百石加増 |
寛文元年八月 綱利公 高見権之助 | 1661年8月 綱利公から 三代高見権之助へ。 |
一 肥後國所之都合八百弐拾壱石四斗余 | 一 肥後の国内で、合計 八百二十一石四斗余 |
同十三年四月 綱利公 高見権之助 | 1673年4月 綱利公から 三代高見権之助へ。 |
一 肥後國八代郡之内百七拾八石六斗加増 | 一 肥後の国、八代郡のうち 百七十八石六斗加増 |
但所附目録別紙ニ有 | 但し、取附目録は別紙にあります。ニ有 |
御書出含拾通 | お書き出しを含めて十通になります。 |
正徳六年二月 宣紀公 高見三右衛門 | 1716年2月 宣紀公より 四代高見三右衛門へ。 |
一 肥後國五郡之内千石之御書出 | 一 肥後の国五郡のうち、千石のお書き出し |
一 従 三斎樣之御書弐通 | 一 三斎樣よりの御書2通 |
一 重治之事置壱通 | 一 初代高見権右衛門重治についての書が1通 |
一 先祖附并自分御奉公差出之控先祖已来之覚書共ニ三通 | 一 先祖附及び自分が奉公について差し出した控え、先祖以来の覚書、共に3通 |
一 萬覚書 四通壱包 | 一 諸々の覚書あり。 1包みの中に4通 ニ代とその弟宛 |
一口メモ
上記の覚は、初代高見権右衛門重治が、小倉の細川忠興公のもとに帰参してから四代の高見三右衛門重故が千石を賜るまでの知行の推移と、それまで残された書状をまとめたものです。初代が亡くなり、九才のニ代に相続された時は、わずかに百石でしたが、このニ代の活躍で820数石まで加増されました。この間に、島原一揆や阿部兄弟誅伐事件などが起こり、大きな活躍をしました。お殿様は忠興公、忠利公、光尚公、綱利公と四代にわたって御奉公したことになります。
尚、この文書の解読に当たりましては、Facebookのグループ「古文書が読みたい!」のメンバーの皆様のご協力を戴きました。ここに改めて御礼を申し上げます。