先祖附下書 政久吟味置

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3005

くずし字解読

先祖附の内に関ケ原御陣の先祖附(せんぞづけ=細川藩独特の制度)の中に関ケ原の戦いの
節、従時に、(三斎樣)より  注)従の後が改行されていますが、これは平出(へいしゅつ)と言って、三斎樣様に敬意を表しています。
三斉様重キ御意茂御座三斉様(細川忠興公)によって重大な決断があった
候由申伝候ト、相見御家譜のとのことが伝えられていると、家譜の
内に右之通有之、此事ニ而も中に、この通り確認出来ますが、この事については
可有御座也、調置充分調査をすべきです。
一 和田庄五郎重治後高見一 和田庄五郎重治、後に高見
権右衛門骨折手負候也、武藤権右衛門は、骨折をして怪我をしてしまいました。武藤
つぶらの邊ニ而、忠興公加藤美濃の国岐阜武藤津府羅のあたりで、忠興公や加藤
氏御上り被成候時、味方先か氏達が攻め上りされた時に、味方が先に
ら立られて來りし時、向之立ち上がった時、反対側の
岸に抱て居たりしに忠興公岸に囲んでいた時に、忠興公は
御詞を被懸、庄五郎逃ルなとお言葉をかけられて、庄五郎よ逃るな、と
被仰ける時、中々と申てふり仰せられたとき、中々(かしこまりました)と言って、
よかりし也、始ハ大和大納言秀長仲間に加わりました。最初のうちは、大和大納言秀長
卿之小姓たりしを、御貰被成、公の小姓だったのを、(忠興公が)もらい受け
弐百石被遣候が、此後五百石二百石を賜りましたが、後に(小倉に帰参の折には)五百石
ニ而番頭に被成候を賜り、番頭に取り立てられました。
政久吟味置(九代高見高見権右衛門)政久が念入りに調べました。

一口メモ

表題の通り、この下書は九代により作成されましたが、九代は文化13年(1816)に、当家の系図を初めて作成し、九代が天保11年(1841)12月23日に死去しましたが、同日付で十代が先祖附を提出しています。この文書は正に当家の系図や先祖附作成をするに当たり、貴重な資料となった筈です。

もっとも、系図や先祖附に書かれた内容は、この文書より詳しく述べられています。例えば関ヶ原の戦いで細川忠隆公にお付きし参戦した折に七カ所の傷を負ったと明記されています。この点では、この文書は初期のものと言えそうです。

文中に,「三斎樣様が重大な決断をした」とありますが、これは嫡子であった三斎樣様(忠興公)の長男の忠隆公を廃嫡にする事を、意味します。この事件の背景については、ここに詳しく説明されています

尚、この文書の解読に当たりましては、Facebookのグループ「古文書が読みたい!」のメンバーの皆様のご協力を戴きました。ここに改めて御礼を申し上げます。

先祖附下書 政久吟味置” に対して2件のコメントがあります。

  1. 武田智孝 より:

    忠興とガラシャ、忠隆と千世それぞれの夫婦関係、忠興と忠隆の親子関係は緊張感に満ちていて興味深いですね。400年経った現代でも心を動かすものがあります。
    ちなみに先年世を去った名女優原節子は小津安二郎監督の紀子ではなく、細川ガラシャのような女の生涯を演じたかったそうです。彼女の演じるガラシャ、ぜひ見てみたかったですね。

    1. 高見洋三 より:

      武田智孝様
      コメントありがとうございます。
      当家の初代は、この狭間の中で、葛藤されたものと思います。忠興公の先見の明と忠隆公の心の優しさが理解できます。
      忠隆公は初代に相談を持ち掛けたのでしょうか?
      いずれにしても、後になって忠興公が初代に対して、誠意を持って対処されたことが、清々しく感じられます。

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