和田家一族の紹介文書 その3
くずし字解読
一 和田半兵衛殿と申後ニハ三郎右衛門と申候、半兵衛殿ハ | 一 和田半兵衛殿と言いますが、後には三郎右衛門と改名しました。半兵衛殿は |
先権右衛門殿之兄ニ而候、此子新十郎と申一人御座候 | 先ほどの初代高見権右衛門(和田勝五朗重治)殿の兄です。その子に新十郎と言う人が一人いました |
得共、松平右衛門太夫殿鎌倉ノ玉縄ニ御座候時分、 | が、松平右衛門太夫殿が鎌倉の玉縄という所にいらした時分、 |
半兵衛殿ヲ古ゟ御存故、御やとひ分ニテ御座候 | 半兵衛殿を古くからご存じだったので、新十郎が雇われの立場になりました。 |
新十郎もむすめのお藤も玉縄ニ居申候て嶋田勘右衛門 | 新十郎も、娘のお藤も、玉縄にいて、嶋田勘右衛門 |
と申仁を半兵衛殿聟ニ被仰付候、新十郎義其 | と言う人物を半兵衛殿の聟になるよう命じられました。新十郎は、その |
後左右を不承候故不存候、勘右衛門も果申候、勘右衛門 | 後に、側近くに仕えるのに、嫌気がさしたので、お側から離れました。、勘右衛門も亡くなりました。勘右衛門 |
お藤子加右衛門と申、只今ハ江戸増上寺方丈之 | と、お藤の子は加右衛門と言い、現在は江戸の増上寺の僧侶の居室管理の |
後取之由ニ候、加右衛門ニはいまだ逢不申候故暫候ハゞ | 後継者になられたとのことです。加右衛門には未だに逢っていないので、何とも言えませんが、しばらくは |
様子聞候へのよし、せがれ弥五八郎方へ申遣候、 | 様子を聞いて下さいとのこと。息子のの弥五八郎の方へ使いをやりました。 |
お藤ハ堅固之由ニ候、加右衛門親類無之、なつかし | お藤は元気なようです。加右衛門には親類がいないので、なつかし |
がり被申候由、丹羽左京殿ニ居申長沢右近と申 | がっていたとのことです。丹羽左京殿の所に世話になっている長沢右近と言う |
者之母、妙正之咄ニ而故申遣し候 | 人の母である妙正の話なので、告げてお知らせします。 |
一 赤井五平次殿と申御旗本大番組頭ニ而御親類 | 一 赤井五平次殿と言う人の旗本(本陣を守る役目の武士)の大番組頭(大番頭配下の中間管理職)で親類 |
ニ而候、あたごの下ニ御入候弟ハ弥兵衛殿と申御花 | です。あたごの下に所属した弟のハ弥兵衛殿と言う人は、御花 |
畑番衆ニテ候神田ニ入候 | 畑番衆(小姓組番衆)で、神田に住んでいました。 |
一 右之外ニも親類有之候へども<伊之助殿事>権右衛門殿へ書付遣之候間 | 一 これらの他にも親類はありましたが、<伊之助殿の事>権右衛門殿へ書付を送る時には |
不申入候 | 入れませんでした。 |
一口メモ
この覚に登場する和田半兵衛は、初代和田勝五朗重治の兄で、系図では作左衛門と表記されています。兄の子、つまり甥の新十郎の子であるお藤は初代から見ると、又姪ということになります。お藤には加右衛門という子がおり、加右衛門については現在形で書かれておりますので、初代からみると、3世代後の事まで書かれており、少なくとも50年後に、この覚が発行されたものと推察されます。
最終行に書かれている権右衛門殿は、三代の高見権之助ではないかと考えております。
この古文書の解読は最も困難なもののようでしたが、件の Facebookのグループ「古文書が読みたい!」のメンバーの皆様のご骨折りを戴きました。小生にとって、初代の和田一族の祖先の覚であり、極めて貴重な文書ですので、何とか解読できないものかと無理をお願いした結果、このように内容の把握が出来たことが大変嬉しく思っております。ここに改めて御礼を申し上げます。