和田家一族の紹介文書 その3

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1005

くずし字解読

一 和田半兵衛殿と申後ニハ三郎右衛門と申候、半兵衛殿ハ一 和田半兵衛殿と言いますが、後には三郎右衛門と改名しました。半兵衛殿は
先権右衛門殿之兄ニ而候、此子新十郎と申一人御座候先ほどの初代高見権右衛門(和田勝五朗重治)殿の兄です。その子に新十郎と言う人が一人いました
得共、松平右衛門太夫殿鎌倉ノ玉縄ニ御座候時分、が、松平右衛門太夫殿が鎌倉の玉縄という所にいらした時分、
半兵衛殿ヲ古ゟ御存故、御やとひ分ニテ御座候半兵衛殿を古くからご存じだったので、新十郎が雇われの立場になりました。
新十郎もむすめのお藤も玉縄ニ居申候て嶋田勘右衛門新十郎も、娘のお藤も、玉縄にいて、嶋田勘右衛門
と申仁を半兵衛殿聟ニ被仰付候、新十郎義其と言う人物を半兵衛殿の聟になるよう命じられました。新十郎は、その
後左右を不承候故不存候、勘右衛門も果申候、勘右衛門後に、側近くに仕えるのに、嫌気がさしたので、お側から離れました。、勘右衛門も亡くなりました。勘右衛門
お藤子加右衛門と申、只今ハ江戸増上寺方丈之と、お藤の子は加右衛門と言い、現在は江戸の増上寺の僧侶の居室管理の
後取之由ニ候、加右衛門ニはいまだ逢不申候故暫候ハゞ後継者になられたとのことです。加右衛門には未だに逢っていないので、何とも言えませんが、しばらくは
様子聞候へのよし、せがれ弥五八郎方へ申遣候、様子を聞いて下さいとのこと。息子のの弥五八郎の方へ使いをやりました。
お藤ハ堅固之由ニ候、加右衛門親類無之、なつかしお藤は元気なようです。加右衛門には親類がいないので、なつかし
がり被申候由、丹羽左京殿ニ居申長沢右近と申がっていたとのことです。丹羽左京殿の所に世話になっている長沢右近と言う
者之母、妙正之咄ニ而故申遣し候人の母である妙正の話なので、告げてお知らせします。
一 赤井五平次殿と申御旗本大番組頭ニ而御親類一 赤井五平次殿と言う人の旗本(本陣を守る役目の武士)の大番組頭(大番頭配下の中間管理職)で親類
ニ而候、あたごの下ニ御入候弟ハ弥兵衛殿と申御花です。あたごの下に所属した弟のハ弥兵衛殿と言う人は、御花
畑番衆ニテ候神田ニ入候畑番衆(小姓組番衆)で、神田に住んでいました。
一 右之外ニも親類有之候へども<伊之助殿事>権右衛門殿へ書付遣之候間一 これらの他にも親類はありましたが、<伊之助殿の事>権右衛門殿へ書付を送る時には
不申入候入れませんでした。

一口メモ

この覚に登場する和田半兵衛は、初代和田勝五朗重治の兄で、系図では作左衛門と表記されています。兄の子、つまり甥の新十郎の子であるお藤は初代から見ると、又姪ということになります。お藤には加右衛門という子がおり、加右衛門については現在形で書かれておりますので、初代からみると、3世代後の事まで書かれており、少なくとも50年後に、この覚が発行されたものと推察されます。

最終行に書かれている権右衛門殿は、三代の高見権之助ではないかと考えております。

この古文書の解読は最も困難なもののようでしたが、件の Facebookのグループ「古文書が読みたい!」のメンバーの皆様のご骨折りを戴きました。小生にとって、初代の和田一族の祖先の覚であり、極めて貴重な文書ですので、何とか解読できないものかと無理をお願いした結果、このように内容の把握が出来たことが大変嬉しく思っております。ここに改めて御礼を申し上げます。

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