和田家一族の紹介文書 その2

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1005

一 和田半次と申者権右衛門殿兄蒲生飛騨守殿内一 和田半次という人は、権右衛門殿の兄で、蒲生飛騨守殿の傘下の
蒲生源左衛門与力ニ望、奥州陣之時残被申候上方蒲生源左衛門の与力(足軽の内で乗馬が許された人)を望んで、奥州陣の時にはその足軽として残り、上方(京坂地方)
衆七人と哉らんノ内ニ而(紫)母袋預ヶ被申候由、此出身の七人とかの中にいて、紫母袋(山形県尾花沢市)に預かりの身になったとのこと。この
ほろ之義常々被申候五人と哉らん打死之由幌の儀式は、常々言っておられたが、五人とかの人が打死されたあとのことです。
其場ニ居申熊谷角兵衛と申仁、我等親ニ語その場所に立ち会っていた熊谷角兵衛という方が、自分たちの親に対して語られた
被申候を聞申候、ほろのだしは金ノ牛したの出シと言うことを聞きました。幌の山車は金飾りの牛の舌の形の山車
のよしニ候、手負候て三日目ニ死被申候由ニ候、角兵衛とのことです。傷を負って、三日目には亡くなられたとのことです。角兵衛
子ハ其元御家ニ三宅と申いしや被仕、此まへ江戸ニテての子共は、元は御家に三宅という医者がいらして、以前は江戸で
権右衛門殿長屋向ニ居被申由ニ候、角兵衛ハ知行三権右衛門殿の長屋の向いにいらしたとのことです。角兵衛の知行は三
百石を不足ニ存、寿徳と申いしやいたし熊野ニ百石を不足と考えて、寿徳という医者が熊野に
居申候を當家中水野淡路守弓頭仕、熊谷住んでいましたが、当家の家中に、水野淡路守が、弓頭をされて、熊谷
二郎兵衛と申抱置申候つる二郎兵衛という人物を抱え置いた、とのことです。

一口メモ

この頁では、初代の和田勝五郎重治の兄弟について触れています。ニ番目の兄である半次が、奥州の陣に参加して討ち死にされたことが書かれています。

幌の儀式とは、良く判りません。系図には、初代は豊臣秀長公に仕えていたところ、細川忠興公に乞われ、細川藩士に加わった事は、系図に明記されていますが、ここではそれ以前に江戸に在住していたという事実が記されています。戦国の時代も就職活動は、あちこちを駆け巡っていたことが読み取れます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です