和田家一族の紹介文書 その1
くずし字解読
覚 | 覚 |
一 丹波國氷上郡ニテ和田兵衛尉と申則和田ノ城主 | 一 兵庫県の氷上郡で和田兵衛尉と言う、すなわち和田の城主 |
ニテ候先権右衛門殿照院春月善光ノ為ニハ祖父ニ而候 | で、先の権右衛門殿の法名は為照院春月善光で、祖父に当たります。 |
赤井悪右衛門殿<御旗下ノ>衆ニ而候善光ノ親ハ新九郎と申候善光 | 赤井悪右衛門殿の支配下にありました。善光の親は新九郎と言い、善光 |
は和田庄五郎と申候 細川休無樣御應故柳田半助と | は、和田庄五郎と言います。 細川休無樣(細川忠興公の長男忠隆公)の用事で、亡くなった柳田半助と |
庄五郎と一度ニ御家をのき加賀へ参それより | 庄五郎とは一旦細川家を離れ、加賀に出向き、それから |
高野山へ 休無樣御供仕候 休無樣御法躰被成 | 高野山へ 休無樣のお供をしました。 休無樣は、剃髪なされ、 |
半助ハ池田三左衛門殿へ有時申庄五郎ハ越前中納言様へ | 半助は池田三左衛門殿へお付きになり、庄五郎は越前中納言様へ |
有時申候何も御預ヶ分之由ニ候両人一所ニぎふ | お付きになりました。どちらもお預かりの身分とのことです。ニ人は一緒に岐阜の |
せきが原共かせぎ被申由庄五郎義ハ市尾清路殿 | 関ヶ原の陣に参加したとのことです。庄五郎は市尾清路殿 |
を以進之御改ニ候て其元御家へ帰参申と半助ハ | に従い、元の細川家に帰参すると、半助は |
三左衛門殿ゟ加賀へ参弐千石ニ足軽預り居申候 | 三左衛門殿を頼り、加賀藩に加わり、2千石の上司に足軽として採用され、そこに居つきました。 |
<半助も庄五郎も元はニ百石ヅゝ> | <半助も庄五郎も元は、それぞれ2百石の扶持持ちでした> |
庄五郎ゟ一年前ニ果申由ニ候庄五郎帰参之 | 庄五郎より一年前に亡くなったとのことです。 庄五郎が(小倉へ)帰参の |
時分高見権右衛門と名を御かへ被成候高見と申候ハ | 時に、高見権右衛門と名前を代えました。高見というのは、 |
播磨國野間之城主ニ而候高見殿と申庄五郎殿 | 兵庫県西部の野間と言うところの城主である高見殿(助之丞)と言い、庄五郎殿の |
母方之祖父ニ而候 | 母方の祖父に当たります。 |
一口メモ
この覚に記載されている内容は、系図や先祖附には記載されていない、全く新しい情報がありました。その一つが初代の和田勝五朗重治が加賀へ行く折に、柳田半助という人物と同道しましたが、その後、初代は忠隆公の付け人となり、柳田半助は加賀藩に残り、大坂の陣に加わり、そこで討死されました。「大坂一巻」『加賀藩史料』第2編には「大坂落城首帳」の中の335頁に、首一、もぎ付、証人なし、として柳田半助の名前が掲載されています。
又、初代が亡くなったのは,元和4年(1618年)でしたが、大坂の陣は慶長19・20年(1614・5年)ですので、上記に記載されている内容に矛盾があるようです。
ここに記されている初代は、下記のように色々な呼称が使われています。
権右衛門、照院春月善光(法名)、善光、和田庄五郎、庄五郎、高見権右衛門