和田家一族の紹介文書 その1

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1005

くずし字解読

一 丹波國氷上郡ニテ和田兵衛尉と申則和田ノ城主一 兵庫県の氷上郡で和田兵衛尉と言う、すなわち和田の城主
ニテ候先権右衛門殿照院春月善光ノ為ニハ祖父ニ而候で、先の権右衛門殿の法名は為照院春月善光で、祖父に当たります。
赤井悪右衛門殿<御旗下ノ>衆ニ而候善光ノ親ハ新九郎と申候善光赤井悪右衛門殿の支配下にありました。善光の親は新九郎と言い、善光
は和田庄五郎と申候 細川休無樣御應故柳田半助とは、和田庄五郎と言います。 細川休無樣(細川忠興公の長男忠隆公)の用事で、亡くなった柳田半助と
庄五郎と一度ニ御家をのき加賀へ参それより庄五郎とは一旦細川家を離れ、加賀に出向き、それから
高野山へ 休無樣御供仕候 休無樣御法躰被成高野山へ 休無樣のお供をしました。 休無樣は、剃髪なされ、
半助ハ池田三左衛門殿へ有時申庄五郎ハ越前中納言様へ半助は池田三左衛門殿へお付きになり、庄五郎は越前中納言様
有時申候何も御預ヶ分之由ニ候両人一所ニぎふお付きになりました。どちらもお預かりの身分とのことです。ニ人は一緒に岐阜の
せきが原共かせぎ被申由庄五郎義ハ市尾清路殿関ヶ原の陣に参加したとのことです。庄五郎は市尾清路殿
を以進之御改ニ候て其元御家へ帰参申と半助ハに従い、元の細川家に帰参すると、半助は
三左衛門殿ゟ加賀へ参弐千石ニ足軽預り居申候三左衛門殿を頼り、加賀藩に加わり、2千石の上司に足軽として採用され、そこに居つきました。
<半助も庄五郎も元はニ百石ヅゝ><半助も庄五郎も元は、それぞれ2百石の扶持持ちでした>
庄五郎ゟ一年前ニ果申由ニ候庄五郎帰参之庄五郎より一年前に亡くなったとのことです。 庄五郎が(小倉へ)帰参の
時分高見権右衛門と名を御かへ被成候高見と申候ハ時に、高見権右衛門と名前を代えました。高見というのは、
播磨國野間之城主ニ而候高見殿と申庄五郎殿兵庫県西部の野間と言うところの城主である高見殿(助之丞)と言い、庄五郎殿の
母方之祖父ニ而候母方の祖父に当たります。

一口メモ

この覚に記載されている内容は、系図や先祖附には記載されていない、全く新しい情報がありました。その一つが初代の和田勝五朗重治が加賀へ行く折に、柳田半助という人物と同道しましたが、その後、初代は忠隆公の付け人となり、柳田半助は加賀藩に残り、大坂の陣に加わり、そこで討死されました。「大坂一巻」『加賀藩史料』第2編には「大坂落城首帳」の中の335頁に、首一、もぎ付、証人なし、として柳田半助の名前が掲載されています。

又、初代が亡くなったのは,元和4年(1618年)でしたが、大坂の陣は慶長19・20年(1614・5年)ですので、上記に記載されている内容に矛盾があるようです。

ここに記されている初代は、下記のように色々な呼称が使われています。

権右衛門、照院春月善光(法名)、善光、和田庄五郎、庄五郎、高見権右衛門

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です