出府について

一口メモ

出府とは、江戸に出ることだが、当家の各代の当主の出府について、先祖附に基づき調べてみた。
参勤交代の制度が確立されたのは、徳川家光の時代の寛永3年(1626)だったので、初代の勝五郎重治は対象外だが、二代の権右衛門重政は妙解院様(細川忠利公)真源院様(細川光尚公)妙應院様(細川綱利公)の三代にわたり、参勤交代のお供として江戸へ向かっている。
三代の権之助は、家督相続前に児小姓として江戸屋敷に詰め、その後使番として度々出府している。
四代の三右衛門重故は、江戸の留守居として3年間勤めた。
五代の権右衛門政武は、お供として一度出府。
六代の高見権右衛門は、出府の経験は一度もない。
七代の権之助正朱は、1年余りの見習い出府を1回経験している。
八代の右源太政信は家督相続後2年目にして出府しており、その後は使番として参勤交代のお供や、早打ちで緊急出府、翌月には帰国し、翌年には留守詰のため江戸へ行く等々、仕事の中心が江戸となり、その後の九代の数衛政久、十代の嶋之介武棟も江戸在住が長い。

さて、出府のルートだが、熊本城から豊後の鶴崎港までの、いわゆる豊後街道なるものが、加藤清正の代に既に確立され、豊後内に2万3千石の領地を確保している。細川家もこれを受け継ぎ参勤交代の街道として整備を進めた。鶴崎まで32里と言われているが、ざっと徒歩で32時間、3日強の日程と考えられる。鶴崎港から兵庫港まで船で渡り西国街道から東海道へと江戸まで34日間の日程で、帰りは中山道から兵庫に出て、そこからは往路と同じルートをたどり、40日かかったと言われている。

京都から江戸までは15日、これに兵庫から京都までの距離を加えると、兵庫から江戸までは徒歩で16~17日となり、陸路の熊本から鶴崎までの3日を考慮すると船旅に要した時間は、計算上では、34-17-3=14日となる。

船旅は、当時瀬戸内海航路が大きな発展を見ているが、風待ちや汐待といったことも考慮すると、結構ゆとりがあって楽しかったかもしれない。

参勤交代の船旅に用いた船の主体は、藩主の乗船する御座船「波奈之(なみなし)丸」という全長30m・幅7m・深さ2mの積載約75トンの船で、46本の櫓を92名で漕いでいたといわれている。この他に、御風呂船、御台所船、水船等の100隻前後の船を従え、千人から3千人の従者が同行したという。肥後藩の参勤交代より引用