九代 高見數衛政久 (1)

熊本大学付属図書館所蔵 高見家文書 #1001

妻 須佐美素雄 娘 みち

権之助 實子右源太養子ニ成ル

九代 高見數衛政久  権右衛門武久 ト改

文化二年十一月四日右源太跡目之御知行家屋敷共無相違被下置

大組附被 仰付澤村宇右衛門組被 召加同四年阿蘇上宮

公義定例之御祈祷之節御名代相勤同六年四月九日御使番被

仰付同年六月四日於御花畑犬追物追早騎射技出精候ニ付御紋附御上下

被為拝領同九年八月二十三日御城御禮御用相勤候ニ付御紋附御上下

同御帷子於御花畑被為拝領同十一月二十八日於御花畑長崎御留守居

被 仰付同十年三月四日此許被指立同所江相詰同十一年三月朔日長崎

 妻 須佐美素雄 娘 みち

 七代権之助の実子で、八代右源太の養子になる

九代 高見數衛政久 後に 権右衛門武久 と改める

文化2年(1805年)11月4日右源太跡目の知行(御知行引渡差紙)家屋敷を相違なく引き継ぎ、大組附を仰せ付けられ、澤村宇右衛門組に召し加えられる。

同4年(1807年)阿蘇上宮(山上神社)の公義定例の祈祷の折には名代を勤める。

同6年(1809年)4月9日使番を仰せつけられる。

同年6月4日花畑(国許の屋敷)犬追物の競技の折に犬のとらえ方や騎馬射的の技が並外れていたため、紋附・上下を拝領される。

同9年(1812年)8月23日お城の御禮(諸作法)の用を相勤め、もって紋附・上下と帷子を花畑にて拝領なされる。

知行宛行状(文化9年9月18日 斉樹公花押)

同11月28日花畑にて長崎へ留守居を仰せつけられ、同10年(1813年)3月4日この地を出発、同所へ詰める。

同11年(1814年)3月1日長崎を出発、

一口メモ

最初の上司 澤村宇右衛門家について

沢村宇右衛門友輔(養子 実・友顕弟正氏嫡子 宇衛)は、沢村大学吉重の嫡流家八代目で、家督は中着座、留守居大頭、大目付、中老職、家老職 を勤め、高見數衛政久が着任した文化2年は、備頭大頭であった。

初代の沢村大学は、若狭高浜の出で、当初は逸見駿河守昌経に仕えていたが、後に細川忠興公に仕え、足軽から5千石の家老にまで登った重臣で姉川の戦いから関ケ原の戦いを通じ、島原の乱まで生涯30回以上の合戦に参加し、数々の手柄を挙げたことで有名な人物で、特筆すべきは、島原の乱では78歳の高齢で参陣し、91歳で天寿を全うしている極めて長寿な人物である。

犬追物絵図

一口メモ

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