花畑屋敷

「花畑」屋敷は、熊本城下の坪井川左岸に加藤清正によって遊興を楽しむための庭園付きの屋敷として慶長15年(1610年)7月頃には作事(建築工事)が行われているので同年中くらいには完成していた。

寛永9年(1632年)、肥後の国守として細川氏が入国したが、熊本城本丸の御殿が不便という理由で寛永13年(1636年)6月には花畑屋敷を常の御殿として取立て、以後、庭園や建家の改修や増築を繰り返しながら幕末まで藩主の屋敷として使用した。

最近の熊本大学の調査では、細川忠利公が寛永10年(1633年)に起きた大きな地震と余震を恐れ、熊本城の本丸から城の南側の邸宅「花畑屋敷」に生活や公務の拠点を移していたということのようだ。

屋敷の周囲は絵図に「五百一間六尺一寸」(約1,000m)とあり、敷地面積が約5町(約5ha)の広大な屋敷だった。

西側に正門があり、北側の坪井川筋に面して舟着場があった。

明治2年(1869年)に新しく屋敷が建てられたが、翌年には城内の藩庁が花畑屋敷に移転し、明治4年(1871年)の廃藩置県で鎮西鎮台の本営に提供され、明治10年(1877年)の西南戦争では全焼した。

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