肥後先哲偉蹟について

一口メモ

高見家九代当主の系図は30頁を超える記述があるが、これらを更に正確に探求してゆくためには、その人物なりを理解する必要がある。

明治44年(1911)に武藤巖男氏編の掲題書籍が東京隆文館から出版されたが、この中に九代に関する記述があるので、ここに紹介したい。

幸いにして電子化されたコピーが国立国会図書館のデジタルコレクションに収録・公開されている。

高見権右衛門

名は武久、権右衛門と称す、食禄は千百石、使番、中小姓頭、用人等を勤める。

天保11年12月22日没す。 享年56、東京白金聖坂功運寺に葬る

高見権右衛門は、和田庄五郎(母方高見の姓を名乗り権右衛門)の九代目で、大組踏出使番、長崎留守居兼勤、その後中小姓頭、用人、江戸白金邸引除を勤務。

諦了公(熊本藩8代細川斉茲公)逝去後、直ちに白金隅部屋に於いて、泰樹院様にお附き、同方様の嫡子様の世継ぎが決まった後、お護役、千五百石高、(内、足高六百石)留守居大頭同列を仰せ付けられる。

英邁剛毅(才知がすぐれ意思が堅くて強くくじけない)の性格で、既に天保6年のころ、白金の近習一手を、銘々評した発句の中にに、毒は毒薬は薬眞蛇哉(「毒も薬も使いようで、どうにでもなる。毒と薬の見極めは厳しく判定しなければならないが、権右衛門はそんな厳しさが並はずれている」という意味であろうか?)と附したのは、まさに権右衛門であった。

妻は須佐美素雄の娘で、才發の誉があった、舅の素雄は力量ありといえども、いたって気難しい人物で、どうかすると癇積(かんしゃく)を起し、仕事も度々断ったとのこと。

昔から家にあっては、これらは急に起こるようで、いずれも言い訳の手段が尽き果て、唯々困りきった時に、内々に使いを出して、聟に来て欲しいと頼めば、桜井町の自宅から藪の内に来て、玄関から権右衛門と名乗ると、ほら婿殿が来たと、素雄は気色が変り、快い状態になること度々であった。その時に須佐美方の嫁の周辺にいた人の話を、後年直節聞いた。

どのようなめぐりあわせなのか。これはひとえに権右衛門の徳によるものである。権右衛門第一の公平な忠勤は、これまでの慣行であると主張し、因循固守(古い習慣をたよってその場をしのごうとして)来る人の私見を見抜き、若殿様の近習に召使われるべき人物ではある。

すべて政府重職中選挙を重要視すれば、文武堪能の壮士、あるいは郡代等の中から選任され、実に白金詰では、済々堂々たる様子にみえる。

しかし、何かと議論が多く、ことのほか多忙になってしまうが、権右衛門は少しも気力も落ちずに、皆にメリハリをつけて熱心に接し、夜も小屋に於いて、談合等に時間を費やした。

元来酒好きで半日も飲まないことはなく、御殿においても権右衛門が飲む酒は、台所から出すようにと、内々に指示が出されたとも伝え聞いている。

たとえ終夜長酒しても、そのまま出仕して公務にかかるや否や、何の差しさわりもなく、仕事を取りさばいた。

とりわけ褒め称えるべきことは、小坂半之允なる人は千石を知行して、ひと意地ある士である。権右衛門とは気質が符号しない。

けれども供頭(お供の人々を取り締まった役)を仰せ付けられるべき人柄である。この外ににこのような人はいないと、わざわざ推挙して、半之允は白金の引除詰(待機)を仰せ付けられた様子。

これこそ清廉(心が清らかで私欲がない)というべきものであろう。

惜哉(おしいかな)、権右衛門は騎馬でお供の折、白金北の聖坂あたりで急病を起こし、落馬して落命してしまった。

村田翁筆記

権右衛門は白金の中屋敷に在勤中、大崎の屋敷へ、鷹狩のお供に出かけた。若君は谷筋へ下りられて、茶屋へはお附の目附が残った。

権右衛門が来て、貴様はどうして一人残っているのかと問うた。この目付は村上久太郎といって、私はお側の道具が残っているので、番をしていると答えた。

高見が云う事には貴様は学者の様だ、久太郎がそのようであっては仕方がないとお辞儀をした。

その後、村上久太郎は若殿様の近習に召出された時のある夜半に、高見は使いを出して自分の部屋に招いた。何事かと行けば、酒を飲んで座ったままであった。

かたわらに一人を縛っていた。これは中小姓鍼料の兼子民壽だ。

高見いわく、この坊主は世に追従せる故如此(かくのごとし)なりと。さて又述べていう。本日飛脚が到着し、國許で和田莊兵衛が使番に転役した。

どうだろうかと問うと、村上が答えるには、これは結構な事です。高見云う。何が結構なのか。村上言う。足高を百石頂戴し、座席が進級した。

高見いう。人選の附役の立場をわきまえず、喜ぶべき事ではなく不自然でもあるとの説論があって、酒などを勧めたと聞いている。

この村上に向って、二度の仕掛、ことさらに兼子の一件は不法の事でありながら、酩酊中少しは教誨(きょうかい=教えさとす)の含みがあっての事で、普通の人間が仕掛けることではない。

この時代白金詰の人々が勤めに励んでいるのは、郡代より附役、近習次組脇兼帯を仰せ付けられた清成八十郎は七ヶ年江戸詰だった。

馬役の久保正助も、七ヶ年。惣裁は高見権右衛門一人で、その魂気は感心せざるを得ない。脳卒中を起したのもしかたない。 

同上