細川光尚公(真源院様)

細川 光利 / - 光尚(ほそかわ みつとし / - みつなお)は、江戸時代初期の大名。肥後国熊本藩の第2代藩主。熊本藩細川家3代。熊本藩初代藩主・細川忠利の長男。

経歴

元和5年(1619年)9月19日生まれ。母は小笠原秀政の娘(徳川秀忠の養女)・千代姫(保寿院)。幼名は六丸。後に、3代将軍徳川家光より偏諱を受け、光利と改名。

父の死後藩主就任の際に光尚と改めた。 寛永14年(1637年)、父とともに島原の乱に参陣して武功を挙げた。

寛永18年(1641年)、父の死去により家督を継ぎ、名を光尚に改めた。翌年、阿部弥一右衛門の遺族による反乱が起こり、これを2月21日までに鎮圧したが、この顛末が後に『阿部茶事談』に脚色され、同書を元にした森鴎外の『阿部一族』に取り扱われている。

正保2年(1645年)末、祖父の細川忠興が死去したとき、忠興の遺言によって従兄弟の細川行孝に3万石を分与し、宇土藩を立藩させた。

慶安元年(1648年)、伯父にあたる故長岡忠隆の一族を熊本藩の一門家臣家とする。また、家老制度や役人などの官制改革も積極的に行ない、藩政の基礎を固めた。

慶安2年(1649年)12月26日、31歳の若さで死去した。後を長男・綱利が継いだが、綱利が7歳と幼かったため家督相続を幕府に認めてもらうために細川家中奔走して、危うく取り潰しを免れた。

なお病床に伏せた時既に病状を悟り、幼い息子綱利は転封、減封、改易の恐れありとして幕府に伺いを提出、「我が子は幼いので出仕に堪えず、如何様になっても公儀の望み通りに願いたい」という願書を提出し、これが心がけ神妙なりとして公儀の好感を得て綱利相続に決まったとされる。

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