元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ちとって吉良邸を出た赤穂46士(注:47人目の寺坂信行は討ち入り後に隊から外れた)は、大目付仙石久尚に自首しにいった吉田兼亮・富森正因の2名と別れて、ほかは主君浅野長矩の眠る高輪泉岳寺へ向かった。
仙石は吉田と富森の話を聞いてすぐに登城し、幕閣に報告、幕府で対応が協議された。
一方、細川綱利はこの日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中稲葉正通より、大石良雄はじめ赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。
さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、はじめ泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備を始めた。
しかしその後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので、急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて、午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。
浪士達の中にけが人がおり、傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと『堀内伝右衛門覚書』にある(山吉盛侍に斬られた近松行重のことであろう)。
この間、綱利は義士たちを一目みたいと、到着を待ちわびて寝ずに待っていた。
17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石良雄と対面した。さらに綱利は、すぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。
預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、風呂は1人1人湯を入れ替え、後日には老中の許可を得て酒やたばこも振舞った。
さらに毎日の料理もすべてが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。
綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召抱えたい旨の希望まで出している。
また12月18日と12月24日の2度にわたって、自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという、凄まじい義士への熱狂ぶりであった。
しかし綱利の願いもむなしく、年改まって元禄16年(1703年)2月、赤穂浪士たちを切腹させるようにという幕府の命令書が届く。この切腹に当たっても綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」として、大石良雄は重臣の安場一平に介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。
義士達は切腹後、泉岳寺に埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀料と金50両の布施を泉岳寺に送っている。幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」として断り、家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて、客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれている。
このような細川家の義士たちに対する厚遇は、江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の
水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌からも窺われる。
これは細川家と水野家が義士を厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを批判したものである。もっとも毛利家や松平家も、江戸の庶民の評価に閉口したのか、細川家にならって義士たちの待遇を改めたとも伝えられる。
明治に入ってからも細川邸跡は、大石良雄外十六人忠烈の跡としてそのまま保存され、現在は港区と泉岳寺と中央義士会が共同で管理している。