八代 高見右源太政信

熊本大学付属図書館所蔵 高見家文書 #1001

郡家之御兄弟

 郡夷則 續源右衛門妻 恵み

  妻 初権右衛門娘清涼院 死後 松下久兵衛養女茂与 離別 

    後清水總数妹なり 右源太没後 芳心院

御養子 郡織衛家ヨリ

八代 高見右源太政信

 天明七年二月十九日養父権之助願之通隠居被 仰付御知行家屋敷

 無相違右源太江被下置御番方被 仰付同八年十二月翌春江戸為

 見習出府被 仰付寛政元年三月十一日御國許出立同ニ年五月十一日

 江戸被指立同六月十四御國江着同五年御使番被 仰付度々江戸

 ニ相詰同九年十月二日八代御城焼失ニ付早打之御使者相同十年

 江戸詰之節御留守居助勤被 仰付享和ニ年七月二十八日御中小姓頭

 被 仰付

 少将様御辞任

 若殿様御目見御元服御婚禮御祝御用相勤候ニ付御紋附御上下

 同御小袖被為拝領其後江戸詰両度文化ニ年七月八日於江戸病

 死 法名顕光院 年四十一歳 江戸白金ヒジリ坂 功運寺葬

 遺髪 妙立寺ニ葬

高見數衛 権之助實子 幼少ニ付右源太養子ニ来ル

女子 名 延き 後 唯 右源太實子 實母松下久兵衛養女茂与

    剃髪後 清場院と改

養子 

 郡家の兄弟は次の1名

 郡夷則 後に源右衛門と名のる。 妻は 恵み

八代 高見右源太政信 養子で郡織衛家より

妻 初めは権右衛門の娘 清涼院 その死後 松下久兵衛の養女 茂 と離別。 

その後は清水総数の妹 右源太の没後は 芳心院と名のる。

実母は 松下久兵衛養女茂与 剃髪後 清場院と名乗る

天明7年(1787年)2月19日 養父権之助の願いの通り隠居を仰せつけられ、知行、家屋敷共に相違なく右源太へ相続され、

役職は番方を仰せつけられた。

知行宛行状(天明8年9月18日 斉茲公花押)

同8年(1788年)12月 翌春見習いの為に江戸への出府を仰せつけられたので、

 寛政元年(1789年)3月11日 熊本を出発した。

同2年(1790年)5月11日 江戸を離れ、同6月14日熊本へ着く。

同5年(1793年)使番を仰せつけられ、度々江戸詰めとなる。

同9年(1797年)10月2日 八代の城が焼失したため、早打(馬などを馳せて急用の使いをすること)の使者を勤める。

同10年(1798年)江戸詰の折に、留守居の助手を仰せつけられる。

享和2年(1802年)7月28日 中小姓頭を仰せつけられる。少将様(熊本藩八代斉茲公)が辞任され、若殿様(熊本藩九代斉樹公)のお目見え(徳川将軍に直接拝謁すること)や元服と婚禮のお祝いの用を勤めたので、紋附裃と小袖を拝領なさる。その後江戸詰を2回行った。

法名 顕光院 年41才 江戸白金ヒジリ坂(聖坂)功運寺 葬 

遺髪は妙立寺に葬

男子 高見數衛 七代権之助の実子 幼少のため右源太の養子に来る

女子 名 延き(えき) 後 唯 右源太の実子