七代 高見権之助政朱

熊本大学付属図書館所蔵 高見家文書 #1001

堀家御兄弟御俗名御法号并御順

   堀次郎左衛門 法号 真了院

   大木弥七兵衛 法号 総持院

   仲光順蔵    法号 理山院

   権之助様

   慶助       法号 帰雲院

   流み       法号 専修院 長尾安右衛門妻

 妻 権右衛門嫡女 甚深院 天明八年十二月二十七日没 高麗門

                   妙立寺葬

 御養子堀堀五左衛門ヨリ

七代 高見権之助政朱

  安永五年三月権右衛門跡目之御知行無相違被為拝領御番方

  天明ニ年為見習出府被 仰付翌三年御國江着同四年正月ヨリ

  相煩同年六月十一日御用有之被為 召御達有之候処病中ニ而難罷

  出段相違候処同年八月二十日御用無之段御達有之其後病気弥不相勝

  同七年正月御奉公御改隠居寛政元年十月十二日病死

  法名一侍院 高麗門妙立寺葬 年二十八歳

御養子 堀五左衛門家より入籍

堀家御兄弟について俗名、法名並びに年齢順は次の通り

掘次郎左衛門 法号 真了院

大木弥七兵衛 法号 総持院

仲光順蔵 法号 理山院

権之助様(七代)

慶助 法号 帰雲院

流み(るみ) 法号 專修院 長尾安右衛門の妻となる

七代 高見権之助政朱  妻は権右衛門の嫡女である甚深院 天明8年(1788)12月27日没 高麗門妙立寺葬

安永5年(1776)3月権右衛門の跡目を継ぎ、知行を相違なく拝領され、番方を勤める。

御知行引渡差紙

天明2年(1782年)見習いとして出府を仰せ付けられる。

翌3年(1783)江戸へ着。同4年(1784年)正月より病気を患う。

同年6月11日御用があり参上すべしとのお達しがあったが、病中であったためまかり出ることができなかった。

その後同年8月20日役職を離れるように言われ、その後病気に勝つことができず、同7年(1787年)正月、ご奉公を辞し隠居の身となった。(在位11年弱の短期であった)

 知行宛行状(天明6年9月朔日 治利公花押)

寛政元年(1789年)10月12日病死される。

 法名 一侍院 高麗門妙立寺葬 享年28歳。

妹(次女) 淋霜消夢 母小嶋の家より嫁す。後離別 宝暦9年(1759)10月23日没 妙立寺葬

妹(三女) 甚深院 権之助の妻で、実母は 貞松院

妹(四女) 清凉院 右源太妻 母 同上 天明7年(1787年)8月9日没  妙立寺葬