六代 高見権右衛門
妻 小嶋家ヨリ離縁後額田家ヨリ 貞松院
御實子 初メ藤太
六代 高見権右衛門
宝暦七年二月家督大組附
明和三年九月御鉄砲三拾挺副頭被仰付同六年御鉄砲拾挺頭被 仰付安永四年閏十二月十四日病死 法名 顕了院 高麗門妙立寺葬
高見市平 後意 - 亀之丞 藤本家之養子ニ成同三郎 山尾善兵衛養子ニ成其節市三郎ト改又籐右衛門ト改 實名安良
女子 藤崎作右衛門妻 名 恵の 法名 慈仙院
女子 須佐美源左衛門妻 名 くん 法名 蓮香院
妻 小嶋家から嫁いできたが離縁し、その後額田家から 貞松院
実子 童名は藤太
六代 高見権右衛門
宝暦七年(1757)2月に家督を相続し、大組附となる
明和3年(1766)9月鉄砲三拾挺の副頭を仰せつけられた。
同6年(1769)鉄砲拾挺頭を仰せつけられた。
安永4年(1775)閏12月14日病死(在職は20年と比較的短期であった) 法名 顕了 院 高麗門妙立寺葬
弟の高見市平は 後に意(こころ?)と改名 その子の亀之丞は藤本家の養子となる。
同弟の三郎は、山尾善兵衛の養子になる。その折に市三郎、籐右衛門と二度改名 実名は安良
女子 藤崎作右衛門の妻 名は「恵の」という。 法名 慈仙院
女子 須佐美源左衛門の妻 名は「くん」という。 法名 蓮香院
一口メモ
この時代は細川藩の財政がひっ迫したため、熊本藩六代藩主の重賢公は、その立て直しのために宝暦の改革に着手した。
一連の財政再建策の他に、宝暦6年(1756)閏11月に「知行世減の法」を発布した。これは慶安3年(1650)の細川綱利公の襲封を境にしてそれ以前の被官の者を旧知、それ以降の者を新知と称して世減が行われた。以上津々堂のたわごと日録より引用
慶安3年の当家の旧知は二代の821石4斗余りで、三代は明歴2年(1656)に跡目相続をしているが、延宝元年(1673)に178石6斗の加増を受け都合1000石となった。
上記のように宝暦7年(1757)に100石が減封されているが、これがまさに「知行世減の法」に基づく処置ではなかろうか?