五代 高見権右衛門政武

熊本大学付属図書館所蔵 高見家文書 #1001

御養子井関家ヨリ 御隠居之御名 拍山 

  井関家ニ而之御兄弟

   一 貞壽院 細川若狭守様家中 西川氏之妻

   一 真了院 御名八十後家ヨリ 

           天明五年六月十九日没 妙立寺葬

   一 掃雲院 荒瀬番蔵妻

   一 日禎 下総國實総寺御在住ニ而病死 法名 誠如院

五代 高見権右衛門政武

初大組附享保十七年十二月御留守居御番頭被 仰付相居候処不勝手ニ付御役儀御改御留守居着座被 仰

延享四年八代御番頭被 仰

同三年二月江戸定許ニ而之大御目附被 仰江戸江茂追々罷 登

同五年十二月御用人御免大御目附役被 仰付座配持掛直ニ御次ニ被 召置其後病気ニ付御役御改願之通直ニ隠居被 仰付御紋附御羽織被為拝領百七十八石六斗旧地ニ被置下候段御用番被仰渡

安永八年九月二十二日病死法名 秋雲院 高麗門妙立寺葬

御養子 井関家より ご隠居の名は 拍山

  井関家での御兄弟は次の通り(この2行は画像に反映されていない)

一 貞壽院 細川若狭守様の御家中である西川氏の妻となる

一 真了院 御名は八十 未亡人になってからこの院号を名乗る  

       天明5年(1785年)6月19日没 妙立寺葬

一 掃雲院 荒瀬番蔵の妻となる

一 日禎(法号)下総の国實総寺(茂原市日蓮宗寺院高應山実相寺?)

       在住の折に病死 法名は 誠如院

五代 高見権右衛門政武

   妻 真了院

   高見藤太(跡継)

   高見市平(次男) 後 意 一 亀之丞 藤本家の養子になる。

   高見三郎(三男) 山尾善兵衛の養子となる。その折に名を市三郎と改める。

         又蘊右衛門と改める。 

         実名は安良

   女子(長女) 藤崎作右衛門の妻 名は志の 法名 慈仙院

   女子(次女) 須佐美源左衛門の妻 名はくん 法名 蓮香院

初めは大組附であった。享保17年(1732年)12月御留守居の番頭を仰せつけられ、勤めていた処勝手が違うために、お役を改め、留守居の席に着くことを仰せつけられる。

知行宛行状(享保19年11月1日 宗孝公花押)

知行宛行状(寛延元年9月朔日 重賢公花押)

延享4年(1747年)八代の御番頭に仰せつけられる。同3年(1746年)2月江戸城許にての大目付を仰せ付かり、江戸へも次第に登城する機会が増えることになる。同5年(1748年)12月御用人(藩の統治機構に属する職種)を離れ、大御目付役を仰せ付けられ、座配持掛(応接役?)の役職で直ちに御次に召された。その後病気になったため役職を離れることを願い出て受け入れられ、隠居の身となる。その折に御紋附御羽織を拝領なされ、178石6斗を旧地に下されることを用番に仰せ渡される。安永8年(1779年)9月22日病死。 法名 秋雲院 高麗門妙立寺葬

一口メモ

この系図に記されている人名は、名字、童名、諱(いみな=成人名)、官職名、院号、戒名(法名)などだが、やっかいなことには、同一人物であっても、その時々に応じて呼称が変わってゆくため混乱しやすい。

上記井関家の兄弟名が詳しく書かれているが、院号の殆どは戒名だが真了院が院号で、日禎は出家されている関係で日蓮宗の法号を用いている。

高見家については、二代の名は 高見(名字)権右衛門(官職名)重政(諱)だが、童名は猪助と呼ばれていたようで、これは、元和4年(当時9歳)、寛永3年(同18歳)、寛永7年(同22歳)の知行宛行状で確認できた。

又、九代の系図は、21歳で相続を受けてから、天保11年の56歳まで記入し続けていたため、細川家の同一人物でも当時の様々な呼称で描かれており、その変遷が興味深いところである。

一口メモ

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