宝暦の改革

新たに藩主についた熊本藩主第六代細川重賢は、藩財政の改善に手を打つことになる。

宝暦2年(1752年)、堀勝名(通称・平太左衛門(へいたざえもん))を筆頭奉行に、蒲池正定(蒲池崑山)を奉行に登用し、改革断行を命じる。

堀は、すぐさま大坂に向かい鴻池家など豪商に借財を要請するが、当時の藩財政は危機的状況に陥っており、鴻池はこの要請を拒絶する。

この話からも、熊本藩の状況がわかるといえる。

しかし、堀はすぐさま当時新興商人であった加島屋との交渉に臨み、藩の年貢一手引き受けを条件に資金を得ることに成功する。

重賢もまた、質素倹約を奨励し、江戸藩邸の費用に限度額を設定するなどの方針を打ち出す。

また、重賢は米だけに依存することに限界を感じており、堀と意見が一致する。

堀に殖産興業を命じ、楮、生糸、櫨などを専売制に切り替え、蝋の生産を藩直営に移行し、製蝋施設を設立させた。

また、領内でたびたび検地を行うなどした。

藩内で出来た製品を加島屋を通じて大量に販売させるなどし、宝暦年間末頃には藩財政の好転が始まっていく。

また、宝暦年間から飢饉に備えて穀物の備蓄を行い、天明の大飢饉の際には更に私財も加えて領民救済にあたった。

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