御書出 四代 高見三右衛門

知行宛行状

熊本大学附属図書館所蔵 高見文書 #20401
肥後國於山本八代山鹿飽田玉名
五郡之内千石任先規之旨
充行之訖全可領知之状如件
正徳六年二月十八日 宣紀(花押)
高見三右衛門殿
肥後の国山本、八代、山鹿、飽田、玉名に於いて
五郡のうち千石を先規の旨にまかせ
これを宛がいおわんぬ全く領知すべきの状くだんのごとし
正徳六年二月十八日 宣紀(花押)
高見三右衛門殿

一口メモ

上記の知行宛行状は熊本藩四代細川宣紀公が家督を継がれて4年目に発給されたものです。高見三右衛門が、家督を得てから9年目に発給を受けたものです。三右衛門は初め大組附で、2年後の元禄4年には弓二拾挺頭に、更にその2年後に番頭を仰せつけられました。更にその2年後の元禄8年には江戸留守居詰めを仰せつけられ、元禄10年4月まで3年間勤めました。元禄15年12月15日の赤穂浪士の仇討が行われ、大石良雄ら17名が江戸藩邸に預けられましたが、高見三右衛門は立ち会っておりませんでした。元禄12年4月には林藤五郎が長崎奉行に着任の折に、小倉へ使者として勤めました。翌年には筑後の柳河藩三代藩主立花英山が隠居した4年後に比奈久温泉に湯治に来られた時にお世話をしました(10日間)。その6年後の宝永3年には先代と同じく八代の番頭に就任し、14年間勤めその後病気により隠居されました。

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