林藤五郎

林藤五郎忠朗(忠和)は第35代長崎奉行で、1699年から1703年迄勤めた。

長崎奉行

長崎奉行(ながさきぶぎょう)は江戸幕府の遠国奉行の一つ。戦国時代大村氏の所領であった長崎は、天正8年(1580年)以来イエズス会に寄進されていたが、九州を平定した豊臣秀吉は天正16年(1588年)4月2日に長崎を直轄地とし、ついで鍋島直茂(肥前佐賀城主)を代官とした。

文禄元年(1592年)には奉行として寺沢広高(肥前唐津城主)が任命された。これが長崎奉行の前身である。

秀吉死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は豊臣氏の蔵入地を収公し、長崎行政は江戸幕府に移管された。初期は竹中重義など徳川秀忠側近の大名が任ぜられたが、やがて小禄の旗本が、のちには1000〜2000石程度の上級旗本が任ぜられるようになった。

長崎奉行職は幕末まで常置された。

当初定員は1名で、南蛮船が入港し現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ帰府するという慣習であった。

しかし、島原の乱後は有事の際に九州の諸大名の指揮を執るため、寛永15年(1638年)以降は必ず1人は常駐する事になった。

寛永10年(1633年)2月に2人制となり、貞享3年(1686年)には3人制、ついで元禄12年(1699年)には4人制、正徳3年(1713年)には3人制と定員が変遷し、享保期(1716年〜1736年)以降は概ね2人制で定着する。

天保14年(1843年)には1人制となったが、弘化2年(1845年)からは2人制に戻った。定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、毎年8月から9月頃、交替した。また、延享3年(1746年)以降の一時期は勘定奉行が兼任した。

奉行は老中支配、江戸城内の詰席は芙蓉の間で、元禄3年(1690年)には諸大夫格(従五位下)とされた。その就任に際しては江戸城に登城し、将軍に拝謁の上、これに任ずる旨の命を受ける。

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