立花英山

立花 鑑虎(たちばな あきとら) は、江戸時代前・中期の大名。筑後柳河藩の第3代藩主。 第2代藩主・立花忠茂の四男。母は伊達忠宗の娘で江戸幕府将軍徳川秀忠の養女として嫁いできた法雲院。

正室は本多康長の娘。幼名は勝千代、大助。号は英山。諱は直茂や広茂を名乗った後、鑑茂、鑑虎(「虎」字は祖父・宗茂の旧名に由来し、兄・茂虎も用いている)とした。

尚、「鑑」の字は、かつて立花鑑載や立花道雪(戸次鑑連)が主君大友義鑑より賜った字であり、鑑虎が使用して以降、現在に至るまでこの立花氏の通字として用いられるようになっている。

生涯

正保2年11月15日(1646年1月1日)に江戸にて生まれる。寛文4年(1664年)、父の隠居により家督を継ぐ。

翌年からは宗門改めを始め、さらには領内の検地を行なって家中には倹約を命じるなどして、藩の安定化に努めた。また、父により幽閉された庶兄の茂虎の不遇を憂い、寛文12年(1672年)に領内山門郡中山村に采地を与え、延宝3年(1675年)に父が死去した翌年(1676年)に加増した。

元禄9年(1696年)7月4日、隠居して家督を次男の鑑任に譲り、翌日には剃髪して英山と号した。元禄15年6月23日(1702年7月17日)に柳河にて58歳の生涯を閉じた。

戻る