先祖附(天保11年12月23日) その3

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1002

くずし字解読

  ニ而被成御法躰候節、越前中納言様江、御預分ニ而居申  (休無樣が高野山)で僧の姿になられた折りに、越前中納言様へ、預かりの身として住んでいた
  候。處中納言様、就御逝去、浪人仕候。慶長十六年、帰参被  ところ、中納言様がご逝去になられ、浪人の身になってしまった。慶長十六年(1611)に帰参を
  仰付、豊前國ニ於ゐ天、御知行五百石、被為拝領、御番頭被  命じられ、豊前の国(福岡・大分)で、知行五百石を拝領なされ、番頭を
  仰付、其砌高見権右衛門与、改申候。元和四年病死仕候。  命じられ、その時に高見権右衛門と、改名しました。元和四年(1618)病死しました。
  右之節、間七大夫迄、覚書差上申候処、  その折りに、間七大夫に、覚書を差し上げたところ、
  三齊様、御自筆之御書入、御朱印、被為拝領候。  三齊様の自筆による御書入と御朱印を、戴きました。
一 私先祖、高見権右衛門果申候ニ付、元和四年六月従一 私の先祖である、初代高見権右衛門が死亡したので、元和四年(1618)六月に
  三齊様、御知行百石、被為拝領候被遊。  三齊様は、当家二代に知行百石を、 拝領なされました。
  御隠居候以後、  (三斎樣様が)隠居された後は、
  妙解院様、御側、被 召仕、寛永三年四月、御知行  妙解院様(熊本藩初代藩主の細川忠利公)のお側に召し仕えられ、寛永三年(1626)四月、知行

一口メモ

本文中に、当家初代が、今際の折に「間七大夫に、覚書を差し上げた」とありますが、この現物が、熊本大学附属図書館に保管されています。これには、忠興公からの返信がこの覚書に書かれ、忠興公のローマ字印まで押された大変貴重な文書の様です。

この書状は、熊本大学永青文庫研究センター長である稲葉継陽教授により解読と解釈がなされました。

文中には、「当家初代の9歳と7歳になる息子達を宜しくお願いします」とのお願いに対して、それぞれ百石を与えると約束され、上記の通り実現されました。

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