先祖附(天保11年12月23日) その2
くずし字解読
之冬、奥州合戦之節、討死仕候 | の冬に、奥州合戦の折りに討死してしまった。 |
一 私先祖、和田庄五郎儀、右 | 一 私の先祖である和田庄五郎(当家初代)は、前記の |
秀長公江 | 羽柴大納言秀長公へ |
三齊様、被遊御所望、文禄二年、於丹後宮津被 | 三齊様(細川忠興公)が(和田庄五郎を)欲しがって、文禄二年(1594)、丹後の宮津に於いて |
召出、御知行弐百石、被為拝領候。其後 | 召し出され、知行200石を拝領された。その後 |
休無様江、被成御附候。慶長五年、岐阜関原御陳 | 休無様(忠興公嫡男忠隆公)へ、お付きになった。慶長五年(1600)、岐阜での関が原合戦の |
之節、御供仕、相應之働仕、七ケ所、手与負申候。武藤 | の折りには、お供をして、それなりの働をして、七ケ所の手負いをした。武藤の |
津婦良迄、被遊御登候節、従 | 津婦良(=津府羅)までお登りされた時、 |
三齊様、重キ御意茂、御座申傳候。其後 | 三齊様に重大なお考えが、あったと伝えられました。その後 |
休無様、加賀國江、被成御越候ニ付、御供仕候。高野山 | 休無様が、加賀の国へ、お越しになさると言うことで、お供をしました。高野山 |
一口メモ
当家初代の和田庄五郎重治の享年は不明ですが、推測してみますと、つぎの情報が判定の手がかりになりそうです。
文禄二年(1594)に、初代が召し出された時の忠興公の満年齢は30歳で、その時の長男忠隆公の満年齢は満13歳です。付け人という立場を考えると、忠隆公よりは年上であったと考えるのが自然と思われます。
また、当家初代が亡くなった年は、元和四年(1618)でしたが、この時の忠興公の年齢は、満55歳でした。この時の当家初代の嫡男が、数え年で9歳でした。これを考慮すると、当家初代は忠興公より若かったと思われます。
又、本文中に「三齊様に重大なお考えがあった」とありますが、この内容はこの頁を参照して下さい。