先祖附(天保11年12月23日) その1
くずし字解読
一 私先祖、和田但馬守、丹波國、氷上郡、和田之城主ニ而 | 一 私の先祖である和田但馬守は、丹波の国、氷上郡(現在の兵庫県丹波市)の和田城の城主で |
四万弐千石、代々領之、其子、和田兵衛尉儀、和田之 | 四万弐千石を代々にわたって、これを領知した。その子である和田兵衛尉も、和田の |
城主ニ而、居申候。丹波之領主、赤井悪右衛門、旗下ニ而 | 城主で、そこに住まいを構えた。丹波の国の領主である、赤井悪右衛門の支配下で、 |
御座候。天正七年、信長公之依命、明智日向守光秀 | した。天正七年(1579)信長公の命令によって、明智日向守光秀は |
丹波江発向、赤井氏与及合戦、被討果候。其節、赤井氏 | 丹波に向い、赤井氏と戦って、赤井氏は討ち果された。その折りに、赤井氏の |
旗下之者共、分散仕候。兵衛尉儀、退城、宰人仕候。 | 支配下にあった人達は、ちりぢりになって逃げた。兵衛尉も、城を離れ、浪人となった。 |
一 右、兵衛尉儀、和田新九朗与、改申候。羽柴大和大納言 | 一 この兵衛尉は、和田新九朗と改名した。羽柴大和大納言 |
秀長公江、被召抱候。右新九郎舅、播州、高野郡、野間 | 秀長公へ、召し抱えられた。この新九郎の妻の父は、播州、高野郡、野間(現在は兵庫県丹波市山南町和田) |
之内、荒田之城主、高見助之丞与申候。新九郎嫡子 | の内の、荒田の城主で、高見助之丞とい言う。新九郎の長男は |
長左衛門、次男半次、三男庄五郎与申候。半次儀ハ、天正十八年 | 長左衛門で、次男は半次、三男は庄五郎という。半次は、天正十八年(1590) |
一口メモ
先祖附(せんぞづけ)とは、肥後細川藩独特の制度で、藩士に対して家臣(藩士)の由来・家系を藩に提出させたものです。ここに掲載される先祖附は、当家九代が死亡した折に、藩に提出した写しです。又、明治3年には、別途当家十二代が提出した先祖附もありますが、原本は永青文庫に、レプリカが熊本県立図書館に保存されています。
この冊子は全37頁に及びますが、順次掲載させて頂きます。
尚、先祖附についての詳しい情報は、川口恭子氏の「細川家家臣略系譜」を参考にして下さい。