阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、近江国和田に住んだ和田但馬守の裔である。
初め蒲生賢秀にしたがっていたが、和田庄五郎の代に細川家に仕えた。
庄五郎は岐阜、関原の戦いに功のあったものである。忠利の兄与一郎忠隆の下についていたので、忠隆が慶長五年大阪で妻前田氏の早く落ち延びたために父の勘気を受け、入道休無となって流浪したとき、高野山や京都まで供をした。
それを三斎が小倉へ呼び寄せて、高見氏を名のらせ、番頭にした。
知行五百石であった。庄五郎の子が権右衛門である。
島原の戦いに功があったが、軍令にそむいた廉で、一旦役を召し上げられた。それがしばらくしてから帰参して側者頭になっていたのである。
権右衛門は討入りの支度のとき黒羽二重の紋附きを着て、かねて秘蔵していた備前長船の刀を取り出して帯びた。そして十文字の槍を持って出た。