【綿考輯録】-巻二十一 (元和九年已後寛永九年迄之内)の三斎君ニ御奉公御知行被下置面々(於中津)によると、間七大夫は知行500石とある。
細川忠興公が隠居した折に中津城に移り、隠居領3万7千石の御倉納を領しこれをもとに家政を運営したが、その統括者として「中津奉行」と呼ばれる役職を設けた。間七大夫は、魚住伝左右衛門、長船十左衛門、続少介らと共にこの役に就いた。この四名はいずれも忠興代の末期に小倉では惣奉行職にあった(「細川忠利ポスト戦国時代の国づくり」稲葉継陽著より引用)。
【綿考輯録】[めんこうしゅうろく] 出水叢書、細川護貞監修、出水神社
江戸時代には、諸藩において、系図乃至家記の類を、あるいは幕府に提出するため、あるいは藩主、家臣の発意により、先祖以来の家系を尋ねて編述することが行われたのである。
(中略)これらは伝記史料というべきものであるから、当時の古文書、古記録のおびただしい収集記載はあるものの、他方では巷間に流布している軍記の類も資料としており、厳密な史実を知るためには十分ではなく、またある場合には不適当であるといわなければならない。
(同書解説より)
以下は間七大夫関連書状
熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3004
中央部に細川忠興公のローマ字印が押されているこの書状は、熊本大学永青文庫研究センター長である稲葉継陽教授により解読と解釈がなされた。
熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #3006
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