先祖附(天保11年12月23日) その4
くずし字解読
百石御加増、都合弐百石、被為拝領、御側御物頭、被 | (知行)百石が加増され、計二百石を、拝領なされ、側御物頭を、 |
仰付、同七年正月、御知行百五拾石、御加増被為拝領 | 命じられ、同七年(1630)正月には知行を百五拾石加増、拝領なされた。 |
同十一年十二月、御知行、百七拾壱石四斗、御加増被為 | 同十一年(1634)十二月、知行を百七拾壱石四斗を加増、 |
拝領。肥前一揆蜂起之剋 | 拝領なされた。肥前一揆蜂起(島原の乱)の折、 |
妙解院様、御供仕、御在陣中、相勤申候。寛永二十年 | 妙解院様(熊本藩初代藩主細川忠利公)のお供を勤め、陣中にあっても、お側についていました。寛永二十年(1643) |
二月、阿部権兵衛兄弟共 | 二月、阿部権兵衛兄弟達の |
御討果を被成候節、被 仰付相勤申候。 | 誅伐がなされた折り、その担当を勤めました。 |
真源院様御代、寛永二十一年七月、御加増三百石 | 真源院様(熊本藩二代藩主細川光尚公)の代の寛永二十一年(1644)七月に、三百石の加増 |
被為拝領 | を拝領しました。 |
妙應院様御代、御使番之觸頭、被 仰付、其以後 | 妙應院様(熊本藩三代藩主細川綱利公)の代には、使番(伝令や監察・使者などを務めた役職)の觸頭(ふれがしら=指図役の責任者)を命じられ、その後は |
一口メモ
当家二代(幼名は猪助)が、家督を継いだときは、わずか9歳でした。上記の通り8年後の17歳の時には二百石となり、側物頭(そばものがしら)を命じられましたが、この役職は、軍事面の職務で、合戦においては一軍を率いる指揮官となり、平時は警備責任者となる職務を意味します。つまり、一人前の武将として認められたことになります。
肥前一揆(島原の乱)については、眞藤國雄氏のブログ「津々堂のたわごと日録」に詳しく紹介されていますが、その中に「有馬働御帳之内抽書(全)」で当家二代について、次の様な記事がありましたので転記させていただきます。
御側御弓・御鉄砲頭之御帳ニ御座候
https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/s/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E5%83%8D%E5%BE%A1%E5%B8%B3
一、高見権右衛門
一、私儀御弓之衆不残召連三ノ丸ノ内より御先へ御供仕奥田権左衛門組と一所ニ参居申候 二ノ丸へ御押込被成候時御先へ參
本丸近所へ参越候て御差物を見付不申いかゝ可仕と見合申候内 湯浅角兵衛組共ニ御小々姓衆も参躰見申ニ付て何も御先へ
被遣候 偏ニ存御詫無御座内御先へ参候段何とも可申上様無御座迷惑ニ奉存候
一、本丸石垣海手より拾五間ほと水の手口ノ方石垣下まで御弓之衆拾壱人供ニ召連上矢を討せ居申候内ニ御弓之衆六人手負申
候を相組之もの引のけ残る三人ニ罷成候ゆへ上矢のかせきハ手うすく罷成候間責而自身なりとも何とそ仕乗込可申と存
石垣際へ著則石垣之上へ上り居申内ニ差物を切おられ其後石にて打落され五六間下にて立上り又石垣へ著 佐分利千蔵・
水間久馬親と一所に居申候ていきをつき居申内ニ引取候へと御使ニ付小篠角大夫と一所ニ引取御本陣へ参居候而明ル廿八
日落城迄相詰居申候
一、上矢を爲討候段ハ貫角右衛門・小篠角大夫見可申候 石垣之上ニ而之儀ハ川村伊右衛門・藤本勘助・坂井七郎右衛門見可申候
以上
更に、その8年後の25歳になると、知行は521石4斗余りとなり、先代の知行500石を越える事になります。8年ごとの加増の意味合いはよく判りませんが、寛永21年の加増は明らかに、阿部兄弟の誅伐に関わるものと思われます。
森鴎外の小説「阿部一族」は、熊本藩士の栖本通次(又七郎)の話に基づいた「阿部茶事談」がベースとなっているようですが、史実との違いはこちらを参考にして下さい。
又、当家二代は、小説「阿部一族」に登場しますが、その抜粋はこちらを参照して下さい。