先祖附(天保11年12月23日) その5
くずし字解読
御小姓頭、被 仰付 | 小姓頭を命じられ、 |
妙解院様 | 妙解院様(熊本藩初代藩主細川忠利公) |
真源院様 御両代、江戸定、御供仕候 | 真源院様(熊本藩二代藩主細川光尚公)の両代に江戸での定住のお供をしました。 |
妙應院様、御代茂、江戸御供、度々相勤申候。其外 | 妙應院様(熊本藩三代藩主細川綱利公)の代も、江戸へのお供を度々勤めました。そのほか |
御隣国之御使者、并御國ニ而之御用、相勤申候 | 隣国への使者や、国許でのご用を勤めました。 |
明暦二年十月、病死仕候 | 明暦二年(1656)十月病死しました。 |
一 私先祖、高見権之助儀、高見権右衛門、存生之内、御児小姓 | 一 私の先祖である高見権之助(当家三代)は、高見権右衛門が存命の内に、児小姓に |
被 召出、在江戸仕相勤申候。其後外様被遊 御出候。明歴 | 召し出され、江戸で勤務しました。その後児小姓を離れ江戸を出ました。明歴 |
二年十一月、権右衛門跡目之御知行、権之助江被為拝領候。 | 二年(1656)十一月、権右衛門の相続すべき知行は、権之助へ拝領なされた。 |
寛文元年八月、御使番被 仰付、其内江戸并御使者 | 寛文元年(1661)八月、使番(つかいばん=伝令・監察・使者)を命じられ、その内に江戸詰めや、使者として |
一口メモ
当家初代の死後、残された当時9歳の二代権右衛門と、7歳のその弟の少五郎は、細川忠興公の取り計らいにより、道家(どうけ)帯刀一成家に養育されましたが、少五郎は、寛永3年(16歳)に知行100石を賜り、23歳で150石加増、江戸にて江戸城二の丸拡張工事に参加、28歳で島原の陣に参加(鉄砲係頭)、44歳に鉄砲十挺頭に昇進、寛文6年(1666)には、62歳で知行50石加増、68歳で鉄砲二十挺頭、71歳で隠居、延宝5年(1677)の73歳で病死しました。
大変な長寿で、当家二代に比べ24年も長生きしたことになります。