先祖附(天保11年12月23日) その6
くずし字解読
等度々相勤申候。延寶元年八月、八代御番頭被 | など度々勤めました。延寶元年(1673)八月、八代(やつしろ)の番頭を |
仰付、御加増百七拾八石六斗、被為拝領、都合千石 | 命じられ、加増百七拾八石六斗を、拝領なされ、合計千石 |
被成下、八代江罷越、十七年相勤申候。元禄二年病 | を下され、八代へ参上、十七年間の長期を勤めました。元禄二年(1689)病 |
氣ニ付、御役儀、御断申上候處、願之通被遊 御免 | 気になったので、お役目を、お断り申し上げたところ、この願いが叶い役職を解かれ、 |
直ニ隠居被 仰付候。 | 直ちに隠居を命じられました。 |
一 私先祖高見三右衛門儀同年七月先祖権之助 | 一 私の先祖である高見三右衛門(当家四代)は、同年(1689)七月に、先祖の権之助 |
家督被 仰付、大組附被 仰付、元禄四年 | の跡目を命じられ、大組附の役職を命じられ、元禄四年(1691)には |
御弓弐拾挺頭被 仰付候。同六年九月、御番頭 | 弓弐拾挺頭を命じられました。、同六年(1693)九月、番頭 |
被 仰付、同八年江戸御留守詰、被 仰付 | を命じられ、同八年(1695)江戸藩邸の、お留守詰めを命じられ、 |
翌年 御参勤之節迄、相勤居申候處、直ニ | 翌年の参勤交代の時まで、勤務をしましたが、直ちに |
一口メモ
熊本の八代(やつしろ)は、古来より博多、鹿児島の坊津と並ぶ九州の重要な対外貿易港でした。それだけに領主争いが激しかった土地で、小西行長が麦島城を築いた後に、大地震のため崩壊し、新たに松江城(八代城)が築かれました。細川忠利公が熊本の領主となると、その父である細川忠興公は、寛永9年(1632)幕府の要請に基づき、この松江城を隠居所として入城しました。
幕府は、島津氏に対する備えもあり、一国一城令の例外として熊本藩にその役目を託したことになります。この重要な拠点である八代城へ赴任した当家三代の権之助は、番頭として知行千石を与えられています。当時の城主は松井家四代直之でしたが、八代市立博物館では、次の様に紹介されています。
直之は、寛永15年(1638)寄之の長男として生まれました。寛文元年(1661)祖父興長が没すると、家老職につき、藩政にたずさわるようになりました。さらに、寛文6年(1666)父寄之が没すると、八代城主となりました。 直之の細川藩での役割は、祖父興長・父寄之の跡を引き継ぎ、若き藩主細川綱利を支えることでした。当時藩の財政はたいへん困窮しており、その立て直しは、祖父と父が積み残した問題でもありました。父の死後、筆頭家老となった直之は、細川藩の財政再建に着手し、天和3年(1683)に知行割替を行うなど、財政の立て直しに努め、成果をあげました。 元禄元年(1688)、直之は母崇芳院のために松浜軒を建て、同5年(1692)、55歳で亡くなりました。 |
又、件の眞藤國雄氏のブログ「津々堂のたわごと日録」に、「地図散歩」という大変興味深い記事がありますが、この中で当家の「八代城御附衆」の備頭・高見氏の屋敷の地図が紹介されています。