先祖附(天保11年12月23日) その7

熊本大学附属図書館所蔵 高見家文書 #1002

くずし字解読

  御供壱ニ、被 召置、同十年四月迄三年相詰  お供の一人に、採用され、元禄十年(1697)四月迄三年間休息をせず仕事を続け
  罷下申候。同十二年四月、長崎江之上使、林藤五郎様  帰国しました。同十二年(1699)四月、長崎奉行所の上司である林藤五郎様
  御帰之節、小倉江之御使者、被 仰付相勤申候。  が帰国される折りに、小倉迄使いをすることが命じられ、勤め上げました。
  同十三年九月、立花英山様、日奈久江就御入  同十三年(1700)九月、立花英山様、日奈久の温泉
  湯彼地江相詰可申旨被 仰付九月罷越十月  に入られるので、日奈久で待機するよう命じられ、九月に参上、十月に
  御帰迄相詰申候。同十四年十一月御役義被  お帰りになるまでお側に付いていました。同十四年(1701)十一月には役職を外され
  召上大組附被 仰付候。宝永三年十二月、八代  大組附を命じられました。宝永三年(1706)十二月、八代の
  御番頭被 仰付候。享保四年六月迄十四年  番頭を命じられました。享保四年(1719)六月迄14年間
  相詰申候處、病氣ニ罷成、御役儀、御断申上候處  勤め上げましたが、病気になってしまい、役職を辞退申し上げたところ
  願之通被成 御免候。弥以病氣二罷越候ニ付  希望通りに解任されました。病気はいよいよ悪くなったので、

一口メモ

当家三代の権之助は家督相続してから、使番や江戸行き・使者を経て八代番頭に着任して以来、隠居するまで17年間も異動はありませんでしたが、四代の三右衛門は相続するや、身分から見ても、最下位の大組附を皮切りに、弓弐拾挺頭、番頭・江戸留守居詰・大組附を経て17年後にようやく八代の番頭に治まりました。

一方、当家三代も家督相続してから、八代の番頭に着任するまで、16年を要しましたが、四代と比較しても大差はありません。従って三代の職歴は詳しく記録されていなかった、とも考えられます。

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